ポンさんから以下のコメントがあったので、新しく立ててみました。
>皆さんの書き込み、とても興味深く拝見しております。
>けれど、三聖さんの書き込みに対する言及がないのが、とても残念なことと思わずにいられません。
>三聖さんは、そもそも神経症というものの実体を認めておられません。
>なまずさんにしろ、永平寺蕎麦さんにしろ、神経症を実体のあるものと認めた上で、完全に受動的になることによって、神経症ではない状態に移行する、変化する、そのように考えてしまっておられるのではないでしょうか?
我々は、精神科で病名が付けられ、薬物療法やカウンセリング、森田療法、無為療法(斎藤療法)、そして自分で考えだしたあらゆる方法で治そうとします。
それに対して「神経症は存在しない」という事ですが。
何かあればコメントお願い致します。
あと、永平寺蕎麦さんのコメントで、
「心の中を観察し、苦痛をただ味わう、を言葉で表現すると、「そうすれば、治る、楽になる」と知性が考えてしまい、自然治癒が起きなくなっている」
とありましたが、「じゃあどうすればいいの?」につながりますので、神経症の人の立場にたった素晴らしいコメントだったと思います。
「あるがまま、そのまま、苦しむ、いつも通り、雑用、治す事をやめる、ただやる、今を生きる、無意識」言葉にするとずっと意識してしまうので、それならば「言語化しない」を実行すると、同じように「言語化しない」をずっと意識してしまう。
永平寺蕎麦さんの「神経症の人は、どこまで行っても、「治したい、治したい」の観念で毎日生きている」という言葉通りですね。
「しょうがないから目の前の事をただやろう」と生活していると、最初のころは良くても、またそのうち苦しくなって、振り出しに戻るという感じです。
ですが、いろいろとやる事があるので、それらをやっていくしかないというのが現在の結論です。(この記事を書いていて再度そう思いました)
それに対して「あるがまま、そのまま、苦しむ、いつも通り、雑用、治す事をやめる、ただやる、今を生きる、無意識、言語化しない」などを挟むから、おかしな事になるのかもしれませんね。(いつの間にか、普段の生活よりも、苦しむ事がメインみたいな状態になってしまう)
管理人さん
このような場をご提供していただき、本当に感謝しております。
そして、
三聖さんの言葉に耳を傾ける気持ちになってくださったようで、
とても嬉しく思います。
三聖さんのような善知識(※仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人)の方に巡りあえるというのは、
奇跡のように喩えられることもあるそうです。
管理人さんが疑問点を三聖さんに質問されることで、
こちらのサイトが、ネット上で最も神経症克服に役立つ、日本で唯一のサイトになると期待しております。
大変僭越ながら、三聖さんの書き込みを理解する上で、
わたしが理解したことを書かせていただきます。
良かったら参考にしてみてください。
間違っているところは、遠慮なくご指摘ください。
三聖さんは、
「自分を概念化しない」とよく言われますが、
「自分を概念化する」ということは、
言葉によって自分を小さく括くくってしまうことです。
「わたしは、・・・です」という言葉の定義によって、
(例えば、「わたしは人と話すのが苦手です」というように)
自分を額縁に閉じ込めてしまうことです。
しかし、このように言葉によって概念化された自分というのは、
実際のところ、実体がありません。虚構です。
神経症で悩んでいる方は、
その虚構の自分を自分本来の姿と思い込み、自分勝手に評価、採点し、良し悪しを付け、
良しなら受け入れ、
悪いなら受け入れないと判断します。
そして、受け入れられない概念化された自分を、
受け入れることが出来る概念化された自分に作り替えようと努力(自分対自分の努力)するのですが、
どちらも実体のない、虚構のものなので、
多大な努力を払っているにも関わらず、一切無駄に終わってしまいます。
虚構と虚構が戦っているだけなので、なんの益も生み出すことはありません。
ただ、エネルギーを消費してしまうだけです。
「わたしは・・・です」と言葉で自分を矮小化、概念化することがなければ、
神経症は成り立ちません。
あるがままと言われる前のあるがままの状態、
もともとの、その元のありよう、そのままの状態に戻るからです。
この状態で神経症になることは不可能です。
なので、
元々何もないところに、自分で勝手に余計事を作って苦しんでいるだけなのです。
霧に向かってボクシングしているようなものです。
これは、宇佐先生の本に書いてあったことですが、
自分を定義することは、本来、自分の機能、はたらきではなく、
それは、神様にしかできない、わたしたちの力の到底及ばない領域に属しているということです。
なので、「心について言葉を使わない」というより、
「自分について言葉を使わない」というほうが、
良いかもしれません。
自分を概念化することなく、
その上で、心に対して無責任になり、
目を開ければ見ようと思わなくても見える光景を見て、
カラスがカーと鳴けば、聞こうと思わなくてもカーと聞こえるというように、
自分の機能、はたらき、そのものになってしまえば、
そもそも存在していなかった神経症は、
跡形も無く消え去ってしまいます。
「心の中を観察し、苦痛をただ味わう、を言葉で表現すると、「そうすれば、治る、楽になる」と知性が考えてしまい、自然治癒が起きなくなっている」
この言葉には、
未だに治癒すべき対象があることが暗示されてしまっています。
三聖さんが仰っていることは、
治癒すべき対象などなかったということが実際で、
それが、カルテ上、仮に「治癒」と名づけられるということです。
治癒を求め、治癒を期待して、治癒を基準に行動することは、
自分の心の状態がどうなる、こうなるということなので、
自分テーマになっていて、実体のない神経症を浮かび上がらせてしまうことになります。
「じゃあどうすれば良いの?」以前に、
「出来ているんです。すでに目的地にいるんです。いつも通りで良いんです」という三聖さんの言葉には、
勇気付けられはしないでしょうか?
三聖さんがお忙しいようなので、
僭越ながら、
またわたしが理解していることを書かせていただきます。
良かったら参考にしてみてください。
>「しょうがないから目の前の事をただやろう」と生活していると、
>最初のころは良くても、またそのうち苦しくなって、振り出しに戻るという感じです。
とのことですが、
これは知らず知らずのうちに、
生活テーマが自分テーマに変わっているからです。
目の前の日常の生活をただこなしているうちに、
知らず知らずに、
目の前のことをしっかりこなせる『自分』という、
実体のない概念化された自分を目指してしまっているのです。
そのために、
自分が自分に、「こうこうこういう自分になりなさい」と命令するようになり、苦しくなります。
そして、行動を振り返り、
うまくやれた『自分』、うまくやれなかった『自分』をテーマにしてしまっているのです。
行動それ自体を振り返ることは良いことですし、必要なことです。
ただそこに、自分というものを挟むと困ったことになります。
実際のところ、
行動それ自体が治癒を引き起こす原因ではなく、
心のことは心に任せっぱなし、心に無責任になることが、
そもそもの治癒の実際なんです。
なので、神経症を消すために、特別な行動をする必要はありません。
ただ、目の前の生活上必要なことに目を向け、それに対処することで、
自動的に、心を観察し、心の状態をどうこうしようという自分テーマから離れることになり、
あるがままと言われる前のあるがままの状態、
治癒すべきものなど何もなかったという、治癒の実際の状態に戻るということです。
そもそも実際には、
最初の最初から全治の状態にいる中で、
自分を観察し、自分を言葉によって概念化し、その概念化された自分を本来の自分と思い込み、
概念化の矛盾を引き起こすことで、
自分の方から、全治の状態から離れていってしまうのです。
これが、何もないところに自分のほうから余計事を作って、苦しんでしまうということの意味です。
行動することそれ自体に薬のような効果はないので、
目の前の必要なことに手を出していれば治ると期待することは、
無意味なことになります。
すでに、
目指している全治という目的地にいるということ、
神経症の症状が立ち上がることは自分次第ということ、
問題と解決策は同じ場所にあるということ、
それに、気づくことが大切です。
三聖さんの書き込みは、
難解な部分もありますので、
理解することを諦めてしまっている方も多いかもしれません。
分からないまま実践するということも必要かもしれませんが、
理解することで、自分の過ちに気が付きやすくなり、
苦しむ時間を短縮することも出来るかと思います。
なので、
大変僭越ながら、
わたしが理解していることを書かせていただきます。
よろしかったら、参考にしてください。
間違っている部分がありましたら、ぜひご遠慮なくご指摘ください。
これは、『神経症の人にとって良いサイトとは?』で、
三聖さんが、ssさんにコメントしている部分です。
>>ただ終わりの見えない苦しみが存在することに変わりはなく、
>「ただ終わりの見えない苦しみが存在することに変わりはなく」 という見解なんです。
>「終わりの見えない苦しみ」という言葉・考え=実際であると錯覚しているんです。
>言葉・考えと実際は違うんです。
>自分の考えを目の前に投射してそれが現実だと思い込んでるんです。
これを理解するのは難しいかもしれません。
けれど、とても大切なところかと思います。
神経症で苦しんでいる方は、
あるがままの世界を見ていません。
過去の経験による自分の考えを外側に投射して、
それが現実だと頑なに信じ込んでしまっています。
なので、
あるがままの世界を見ているつもりでも、
実際には、今現在存在していない過去を見ているだけだったりします。
過去の経験により、自分勝手に意味づけした世界を見ています。
それは自分の考えの中にしか存在しない、虚構の世界です。
あるがままの世界とは、認識以前の世界であり、
過去の経験により基づいた価値判断される前の世界です。
例えば、
どんな人にも、そこに行くと落ち着かない気分になる、苦手な場所というのはあるかと思います。
なぜ、落ち着かない気分になるかといえば、
過去にそこで嫌な経験をしたことがあるからだったりします。
ということは、本来、良いも悪いもない中立的なその場所に、
過去の経験による考えを、その場所に投射し、
その考えを目の前に見てしまっているということになります。
ほかにも、
誰かと話していて、第一印象と違うと思った経験は、
誰にでもあるかと思います。
第一印象というのは、誰かを見た瞬間に心に浮かんだ、
過去の経験に基づいた自分の考えです。
そのときには、目の前のその人をあるがままに見ているわけではなく、
目の前のその人に、自分の考えを投射し、それを見ていることになります。
そして、その考えを、現実と錯覚しております。
それと同様に、
自分自身でさえも、あるがままに見ているわけではありません。
過去の経験に基づき、言葉を使って自分を概念化し、
その概念化をされた自分を見て、それを実際の自分と錯覚しております。
このように、
神経症で悩んでいる人は、虚構の世界を生きていて、
それが、実際とのギャップが大きくなることによって、苦しみます。
しかし、虚構は虚構で、実際には存在していません。
虚構を作り変えよう、虚構を消そうとすることで、存在するかのように見えるだけです。
虚構の世界から逃れるためには、
目の前の現実の必要事にただ動かされていく、
それが大切となります。
すでに目的地にいるのです。
森田療法では、
心の状態はどうあれ、心はほったらかしに与えられるままにし、
生活上必要なことに手を出して行くと教えられることが多いですが、
これは、とても誤解を生みやすい表現かと思います。
何故かと申しますと、
「心の状態はどうあれ、心はほったらかしに与えられるままにする」という受身的表現と、
「生活上必要なことに手を出して行く」という能動的表現が混在し、矛盾が生じているので、
混乱しやすいからです。
なので、
「心の状態はどうあれ、心はほったらかしに与えられるまま」(受身)
「生活上必要なことに動かされていく、流されていく」(受身)というように、
心の状態と行動を両方とも受身にすることで、
矛盾が解消され、混乱はなくなります。
具体的に言いますと、
部屋が散らかっていて落ち着かないという感覚に動かされ、
部屋を片付ける、
汗だくで気持ちが悪いという感覚に動かされ、
シャワーを浴びるといった具合です。
ただ、注意して欲しいのが、
欲に動かされると、行き詰ってしまうということです。
この点に関しては、
『神経症の人にとって良いサイトとは?』2012年10月1日9:12PMの、
ssさんへの三聖さんのアドバイスに詳しいので、
参照されるとよろしいかと思います。
ボンさんへ
どうもありがとうございます。
ボンさんの書き込まれた、まったくその通りです。
ボンさんの表現でおっしゃっていただいてとてもありがたいです。
善知識という言葉をいただきましたが、
十方三世一切仏とあるように、
これは皆そうなんです。
ただ、自分で自分が迷わさせておるだけでそれがそうと承当できなくなっておるんですね。
>知らず知らずのうちに、生活テーマが自分テーマに変わっているからです。
目の前の日常の生活をただこなしているうちに、知らず知らずに、目の前のことをしっかりこなせる『自分』という、実体のない概念化された自分を目指してしまっているのです。
そのために、自分が自分に、「こうこうこういう自分になりなさい」と命令するようになり、苦しくなります。
そして、行動を振り返り、うまくやれた『自分』、うまくやれなかった『自分』をテーマにしてしまっているのです。
行動それ自体を振り返ることは良いことですし、必要なことです。ただそこに、自分というものを挟むと困ったことになります。
ほんとにそうですね。
ありがとうございます。
>行動それ自体が治癒を引き起こす原因ではなく、心のことは心に任せっぱなし、心に無責任になることが、そもそもの治癒の実際なんです。
ちょっと詳しく言わせていただくと、
行動それ自体が、いわば「治癒」(本人が、そうとその時、わからないうちに、知らずに、これが本当です)です。
行動それ自体、即、心のことは心に任せっぱなし、心に無責任が、わからないうちに、知らずに、その瞬時に実現しているんです。
次の瞬時に、内面を観察して、概念化して、自分対自分の作業が始まれば、また、神経症開始ボタンを押すことになるんです。
瞬時に激しく入れ替わっているんですが、
ご本人の中では、ずっと神経症状態が続いていると概念で決めて、心の虚構の物語を編集しているんです。
その観念を実物と思い込んで錯覚しているんです。
・・・・そして、
読まれた方に大事な事です。
もし、
ここで納得されましたら、
こうしていけばよいのだという、その情報・考えを、
事実より先に掲げて
自分に、応用して、
実体のない自分を実体として持ち運んで、取り扱う事のないようにお願いします。
ボンさんの言われるように自分テーマになってしまうからです。
・・・ただ、事実に動かされていくんです。
よろしくお願いします。
三聖さんへ
ご返信ありがとうございます。
大方間違ったことを書いていなかったようで安心いたしました。
こちらのHPは、
管理人さんが神経症にお悩みということもあり、
三聖さんのような存在が排除されないということが素晴らしいことかと思っております。
わたし自身もかつてそうでしたが、
自分が理解していると思っていたことを間違っていると指摘されますと、
自分の存在がぐらつき始め、混乱し、
自分を守るために防衛することに躍起になってしまいます。
すんでのところで気づかせていただいたこと、
とても有難く思っております。
現在、山田無文老師の『臨済録』を拝読しておりますが、
ご指導いただけたおかげで、
とても面白く読むことができております。
禅の世界の奥深さに感動し、山田無文老師の絶妙な解説に、
ところどころ呵呵大笑しております(笑)。
かつては、神経症になった自分の運命を呪っておりましたが、
三聖さんの「神経症という名の法縁」という言葉によって、
神経症に対して、違う見方をすることができるようになりました。
法縁だと思えば、神経症が逆に有難く感じるのが不思議です。
合掌(-∧-)
ポンさんへ
三聖さんはもう僕の質問に答えたくないそうなので三聖さんの書き込みを良く理解できるポンさんに代わりにお聞きしたいのですが、この自分を自分だと概念化しない為にはどうすれば良いのでしょうか?考えたくもない思い出したくもないこれまで生きてきた人生という過去があるのです。今必要なことするといっても、それはそういう過去があったから今必要なことがあるんですよね?例えば、今無職の人なら、普通仕事を探さないといけないでしょう。職を失った過去があるから、職を探さなければならない今がある。なのでこういう場合、自分は今無職なのだと概念化せざるを得ないと思うのですが…。
苦悩を抜け出す鍵は、自分を定義しないことだと思いますが、そんなことが本当に出来るのでしょうか?
ssさん
こんにちは。
コメントありがとうございます。
ssさんの三聖さんへの質問によって、
わたしも多くのことを学ばせていただきました。
三聖さんの代わりになれるかどうか分かりませんが、
よろしかったら参考にしてみてください。
>この自分を自分だと概念化しない為にはどうすれば良いのでしょうか?
これは、身心に関する所有権の問題になるかと思います。
わたしたちは、普通、自分の体、自分の心を「自分のもの」として認識していますが、
じつはこれが大きな間違いの始まりなんですね。
三聖さんのssさんへのアドバイスの言葉です。
『「この身心」は自分、おれ、わたし、ぼくを知る前に、もともと、こう、ただ、あって活動していたでしょう。そういうところからみても、この「身心」は宇宙的です。
平たく言うと、「これが自分と思っている自分」以外のすべてが「本来の自分」です。(川上老師の言葉、この話には続きがありますが・・)』
『釈迦は、この身はこのようにあるが、「自分」というのは、ないんだ、看板、記号、名に過ぎないと知ったんです。言わば、虚構です。地球を見たら国境線など引いていない(三省会の人の表現)と同様。
だから、この宇宙的な「身心」を「私」と思い込んで、「私基準」で取り扱いしはじめて、・・・行き詰ってきたわけです。』
わたしたちは、これまでずっと、
宇宙的な働きの現れであるこの「身心」の所有権は、
自分たちにあると主張して来て、苦しんできました。
この「身心」は宇宙の所有物なのですから、その所有権は、宇宙に完全に譲渡する必要があります。
これが、親鸞聖人の言われる、『他力本願』ということかと思います。
自分を概念化、定義することは、
本来自分のものではないものを、自分のものだと主張することであり、
例えて言うなら、
他人の家に、自分の名前を書いた表札を付けてしまうようなものです。
そういうわけで、
わたしも先日、このスレに、
『宇佐先生の本に書いてあったことですが、
自分を定義することは、本来、自分の機能、はたらきではなく、
それは、神様にしかできない、わたしたちの力の到底及ばない領域に属しているということです。
なので、「心について言葉を使わない」というより、
「自分について言葉を使わない」というほうが、
良いかもしれません』
と書かせていただきました。
>苦悩を抜け出す鍵は、自分を定義しないことだと思いますが、そんなことが本当に出来るのでしょうか?
これは、生活上必要な目の前の事実に動かされていくことで可能になるということですね。
逆に言えば、
本来、自分のものではない自分を実体のあるものとして認め、それを自分基準で取り扱い、自分勝手に概念化したり、作り替えようとする「自分対自分」の努力をしている限りは、
絶対的に不可能ということですね。
>自分は今無職なのだと概念化せざるを得ないと思うのですが
仰るとおり、
社会生活上はそのようになってしまうかと思います。
けれども、
そのように概念化された自分を本来の自分と混同しないことが大切になります。
無職の自分=情けない自分と思い込んだまま、
就職活動をし、うまく職業を得ることが出来たとしても、
ssさんの心が自分テーマから離れることが出来ていなければ、
火事が起こっている家から逃げ出したと思ったら、
また同じように火事が起こっている家に逃げ込んでしまっているという具合に、
幸不幸の輪廻を永遠に続けてしまうことになります。
まずは、ssさんご自身の心を変える必要があるかと思いますが、
自分の心を変えるとは、
自分の身心を、自分を超えた大いなる存在にゆだねるということです。
つまり、自分を概念化しないということです。
>考えたくもない思い出したくもないこれまで生きてきた人生という過去があるのです
とのことですが、
全ては宇宙的な働きの中で、起こるべくして起こったことです。
道元禅師の言葉で、「因果歴然」とありますね。
過去はひとつしかなかったのです。
ssさんが辿って来た道以外に、他の道はなかったのです。
過去を振り返り、
「あのときなんで、あんなことをしてしまったのだ。あんなことしなければ良かった」、
「親がもっと違う育て方をしてくれていたら、自分の人生はもっと違うものになっていた」というように、
別の過去の可能性を考えることで、
自分を責め、他人を責め、運命を責めるようになり、苦しくなります。
過去はすでに過ぎ去っております。今、現在、過去はここにはありません。
それなのにどうして、
過去によって、今苦しんでいるかと言いますと、
過去の出来事を、今現在、現時点において解釈、分析することによって、
現時点で、罪悪感、恥辱感、怒りを感じることを、
自分自身で選んでしまっているのです。
決して、過去の出来事、人物そのものが、
今、現在、ssさんのことを苦しめているのではなく、
ssさん自身が、過去を解釈、分析することで、
自分自身で、罪悪感、恥辱感、怒りを感じることを、自分自身に許してしまっているのです。
ssさんがそうすることを選択しなければ、
すでに過ぎ去ってしまった過去が、今現在のssさんに触れることはできなくなります。
これは三聖さんの言葉です。
『いくら、どうですかこの俺、、ダメですこの僕、、と言うたところ、自分で見た自分、概念化された自分は、本来の自分でないから、無駄。そういう俺、僕がほめられようと認められようと無駄骨を承知されていることでしょう。虚構なんだから。自分という言葉を使えば、本来の自分はそう言った虚構の自分以外のすべてだから。本来の自分は、強いて言えば、道元禅師の言葉を借りれば、春は花、夏ほととぎす秋は月冬は雪・・と例えられます。』
過去はひとつしかない。因果歴然。別の道はなかったのです。
すべては宇宙的な働きの中で起こったことです。
これもまた、三聖さんの言葉です。
『治るも治らないも、「自分」がやってることだと思いがちですが、呼吸しかり、脈拍しかり、体温調整しかり、「自分」が介在しない。「自分」がないところで、このようにこうある。だから、神経症から離れると「自分の症状」と思っていたものが、ああ「自分のもの」じゃなかったんだとわかるんです。そこで、自分を責めることがなくなる。自分が許せるんです。
自分を許せると自分が自分とひとつになる。ひとつにあると自分がなくなるんです。自分がないと目の前もなくなるんです。』
三聖さんの言葉は、本当に知恵の宝庫ですね。
これも、ssさんが質問してくださったおかげです。
ssさんは、まずは、
自分を許すことから始められるのが良いかもしれません。
ゆるしに関して、
以下の本が役に立つかと思います。
倉田百三『出家とその弟子』
ジェラルド・G・ジャンポルスキー『ゆるすということ』
どちらも文庫本で出ており、
2冊買っても1,000円ちょっとですから、
よかったら読んでみてください。
自分を定義、概念化してしまうことによって、
どのような影響が心に生じてしまうのかは、分かりづらいかもしれません。
この動画は、
『人生問題の解決』というサイトの管理人さんが、
しばしば紹介されているものですが、
「自分を概念化することによる影響」という観点から見ますと、
とても多くのことを学べるような気がします。
また、天国(救済)は、
今いるところから、天国(救済)を目指して達するのではなく、
現時点において、すでに達しているということを知る意味でも、
とても多くの示唆に富んでいるような気がします。
このことが分かれば、
以下の白隠禅師の座禅和賛の言葉も、
心に響いてくるのではないでしょうか。
==============================
人は本来仏なのです 氷と水のように
水を離れて氷がないように 人の心の中以外に仏はありません
仏は自分の心の中に有ると言うのに、どこか、遠くに仏を求めるのははかない事です
例えば、水の中にいて、乾きを叫ぶようなものです
金持ちの子に生まれ、お金が無いと迷うのと同じです
人の心は、地獄、修羅、餓鬼、畜生、人間、天国の六道をさ迷いますが、それは自分の愚痴から始まるのです
その、同じあやまちの繰り返しから、いつか離れなければいけません
大乗仏教の「禅定」は、褒め称えるにあまりあります
布施や持戒のもろもろの行い、念仏、懺悔の修行などの
沢山の善行も、全て「禅定」に帰するのです
一回だけの座禅でも、今まで犯した罪はなくなります
そもそも、罪など何処にもないし、浄土は遠くはないのです
あなたが人として生まれ、この「仏法」を、一度でも聞いて
感涙する人は、必ず本当に幸せをつかみます
ましてや自分をかえりみて、自分の心の正体を知れば
その正体は無性なのですから、すでに下らない論理を離れているのです
あなたが生まれ、苦しむ理由を本当に知りなさい、自分だけが悟って満足してる道を直し
心はそもそも「無相」です、その相を忘れずに、天国に行くも地獄から帰るのも、大問題ではありません
心が執着から離れれば、歌う時も舞う時も本来のあなたなりに自然に出来ます
心の中にある、何のこだわりも無い空に、本当の智慧が月のように輝きます
その時に何かを求めるべきです、心の汚れは必ず燃え尽きるのだから
今、生きてるこの世が浄土なのです、そう思えた時にあなた自身が「仏」なのです
=========================
三聖さんへ
間違っているところがありましたら、
ぜひご遠慮なくご指摘、ご指導ください。
ポンさんへ
お返事ありがとうございます。
僕にはちと難しすぎるせいなのか、何と返して良いのか分からずに居ました。繰り返し読ませて頂いてるし、これからももっと繰り返し読んでみます。
因果歴然の意味はそういう意味でしたか。。
この道以外に無かったと仰って頂けていくらか楽になりました。確かに本格的におかしくなり出した15歳の頃に、この教えを知ることが出来ていたら、こんな人生にならずに済んだと思います。知ることが出来なかった以上この人生は必然であったと思います。
そしてこれからは絶対に今まで出来なかったことが出来るだろうという思いもあります。
もしかしたら60代、70代でこういう素晴らしい知恵を知る人も居るでしょうからその人達に比べたら自分は幸せでしょうね。
概念化した自分から離れるには、目の前の必要ごとに動かされるしかないのですね。
僕は情けない悩みを書き込みましたが、死んでしまいたいくらい辛い悩みですけど、その悩みを一日中、片時も忘れずに持続させることが出来るかと言えば、決して
そんなことは不可能でして、絶対、ほかのこと考えてる時間はあります。
なので目の前の必要ごとに動かされるも出来てきたし、これからもやっていけるはずと思います。
ただ自分を自分で動かそうとしてはいけないというのは大事な点でしょうね。
自分を言葉で決めない、自分で自分を動かそうとしない、この二点を意識するようになってから、いくらか楽になったように思います。
何というか、せっかく丁寧に書いてくださったのに、余り理解できてなくてすみません。
繰り返し読ませていただきます。分からない点をお聞きしたいんですが上手く言葉にできなくて。
それとこれから半年間、非常に忙しいというのもあって、お勧めの本は半年後にきっと読みたいと思います。
ありがとうございました。
ssさん
お返事ありがとうございます。
お返事に関してはあまり気にしないでください。
ssさんのご質問に答えることで、
わたしも理解を深めることが出来ております。感謝です。
難しすぎるとのことですが、そうかもしれません。
ここの掲示板だけで理解することは至難の業かもしれません。
わたしも色々な本を読んだり、ネットで調べたりして、
少しずつ三聖さんの仰っていることが理解できるようになりました。
森田療法では理解よりも実践することが優先されることもあり、
仏法を理解する必要はないように思われがちですが、
わたしはこれは違うのではないかと思っております。
三聖さんも、宇佐先生も、山田無文老師も、親鸞、道元その他諸々の禅師、みな、もの凄い知識人です。
ただ、完全なる解決に至るまでは、
自分が理解したと思ってはいけないということが大切なのではないかと思います。
この点に関して、自分自身に正直になる必要があるかと思います。
わたしたちは、実体のない『自分』というものを実体のあるものと認め、
その実体のない自分を言葉によって概念化することで、
自分自身に間違ったことを教えてきました。
とても重要なことかと思いますので、
再度、三聖さんの言葉を引用したいと思います。
『いくら、どうですかこの俺、、ダメですこの僕、、と言うたところ、自分で見た自分、概念化された自分は、本来の自分でないから、無駄。そういう俺、僕がほめられようと認められようと無駄骨を承知されていることでしょう。虚構なんだから』
わたしもssさんと同様に、
「自分はとんでもない罪人で生きる資格はない」と思い込んできました。
けれどもこのように概念化された『自分』は虚構と知り、
心がとても楽になりました。
本来の自分は概念を超えた存在であり、
あえて概念化するのであれば、『仏』となるのだと思います。
>自分を自分で動かそうとしてはいけないというのは大事な点でしょうね。
そうですね。
自分で自分を動かそうとするということは、
まず最初に理想的な『自分』を掲げ、
それに向かって努力することですから、
その時点で『自分対自分』の努力が生じていますから、
すぐに苦しくなって、動けなくなってしまいます。
もっとも大事な点は、
「すでに全治という目的地にいる。神経症というのは存在しない」ということですかね。
このことが分からない限り、なかなか『自分対自分』の葛藤からは抜け出せないと思います。
また何かございましたら、
いつでもお気軽にご質問ください。
ボンさんへ
>過去の非礼・・
ということをおっしゃってますが、どういうことですか?
>すんでのところで・・・
どういうきっかけで・・何によって・・変わったのですか?
よろしければ、お聞かせください。
ボンさんへ6/29-①
山田無門老師について
著書に「自己を見つめる」「洗心」があります。
タイトルに関しては、面白くないですね。
以前、本を拝見したことがあったのですが、その時でさへ、それ以上読む気がおきませんでした。
あらためて、図書館に行ったり、ネット上で老師の文を拝見しました・・・
>心が迷わないように、「一日一度は静かに坐って、からだと呼吸と心を調えましょう」ということになり、坐禅せよ、坐禅せよと言うのであります。心を調えるとは何も思わないことであり、その何も思わない稽古(けいこ)が坐禅ということです。浄土門で言うならば、はからいを捨て、分別を捨て、ただただ念仏申せで、頭の中にフイフイと起こってくる妄念を切り捨て切り捨て、ただ「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えることによって頭の中を整理せよと・・・
「何も思わない稽古」をしようとしたら、いけません。
思わないようにと思ってしまうことにもなり、「心」の用事になってしまう。
思いが出たら出たで、そのまま。
道元禅師の言う、非思量を思量せよというのは、思いのままと受け取ってください。
自分を取り扱うことになり、いわゆる、習禅習学になります。
「頭の中を整理せよ」
上記と同様。
>人間の心の奥には、自己の肉体、自己の行動、自己の心理をも、すなわち自己という人間全体を客観視し駆使してゆく高度の主体性がある。
「高度の主体性」・・
「心王」と呼ばれる、最奥のところも、実体がないということです。
「客観視」・・
しないんです。
>本心のままに生きていくということが大切であります。「幼児(おさなご)のような心にならなければ天国に入れない」とキリストも言われましたが、しかし厳密に言いますと、幼児は既に親の癖や遺伝因子を持って生まれていますから、生まれん先がよろしい。親も生まれん先がいい。この世界にまだ生物の生まれん先の心になれ。これを禅の方では、「父母未生以前(引用者註:ぶもみしょういぜん)の本来の面目」と言うのですが、そういうきれいな心が人間の本心だと分かるならば、「至道は難きこと無し」で、道徳は難しいものではありません。 正念相続、いつも何も思わない稽古をしていくことが、われわれの人生の一番大切なことであります・・・
①
「そういうきれいな心」・・
きたないの反対語としてのきれいというならば、間違いになります。
②
「そういうきれいな心が人間の本心だと分かるならば、」・・
そのように、
何か、特定の心の状態を本心というのでなくて、
すべての状態が本心です。
それを、宇佐先生は、心に良し悪しなしと、南泉禅師は平常(心)是道と言うたんです。どんな状態もそのまま道なんだよと。
③
「生まれん先の心になれ。これを禅の方では、「父母未生以前の本来の面目」と言うのですが」・・・
生まれん先とは、言わば、「即今」の事です。
生物学的に何万年先という先ではないんです。・・・誤解されているようです。
よろしくお願いします。
ボンさんへ 6/29-②
ssさんについての書き込みについて
ssさんに回答をお断りしたのは、
ssさんのためにならないからです。
すでにお答えしているのに、それを、ssさんは恣意的に解釈なさるため、何回も同じことを聞かれる。
同じことを聞いてこられても問題ないのですが・・・
ssさんは、聞いて答えを得る、そして、自分はこんなに苦しいんだわかってくれますかという訴え、自分はこんなにバカなんですという卑下することの慢で、相手の反応を得る、そういう「ストローク」を得ることで、安心しているようです。
あるいは、自分はこんなに苦しいんだ、こんな自分はどうしようもないという自分物語は、あいかわらずだという、苦しいけど、変わらない筋書きだということを再確認をしておられるようで、そういうことで安定を得ているようです。(これは他の方にも言えることですが、ssさんは特にこの傾向が強いようですので)・・・目の前の生活さておいて、そういうやりとりをくりかえしていては、無為療法の方のように何十年も引きづることになるんです。
こういう方にとってよいことは、一切書き込みという目の前の生活から離れる手段を奪うことです。
そういうことを書き込んであるはずですが、趣旨がのみこめていないようです。
さて、
ssさんにもお伝えしていますが、
宇佐先生の入院療法は、それが奪われる最良のチャンスです。
が、ご本人は、そこまでは、本気ではないようです。
つまり、
苦しいと言いながら、そのおかげで、自分を他から認めてもらえる現在の状況でいたいのでしょう。
>心を変える必要があるかと思いますが、自分の心を変えるとは、自分の身心を、自分を超えた大いなる存在にゆだねるということです。
つまり、自分を概念化しないということです。
自分を概念化しないなら、・・・
こうだという心をつかむことができない。
つかめない心をどう変えるんですか?
しかも、
良し悪しもつけられないでしょう。
つまり、
「自分の心を変える」必要がないし、
変えるべき心がないんです。
>自分を許すことから始められるのが良いかもしれません
ご本人が自分を概念化して、「許さない自分」というように概念化され、そういう自分がが観念上いるということを知ればよいです。
つまり、そういう自分を認めているんだ、それで迷っているんだということを知ってくだされば十分です。
結論から言うと「許すべき自分」は、ないんです。
ですから、そういう自分を相手どって作業することは余計な苦労ばかりで功なしになります。
>宇佐先生の本に書いてあったことですが・・・
宇佐先生の本でも
宇佐先生の発言と、共著の木下さんの言があります。
木下さんは、時々、誤解されていますので、そのまま鵜呑みにしてはいけません。
>人生問題の解決というサイトの管理人さんが、しばしば紹介されているものですが、
「自分を概念化することによる影響」という観点から見ますと、とても多くのことを学べるような気がします。http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM
このジルボルトテイラーさんの動画ですが、人生問題の解決というサイト掲示板で批判があったようですが、禅の悟りと別物です。
ジルさんが見えたものはこの人間という道具立てで脳卒中という状況下でそうみえたのです。
ではそれは、そのままの事実なんですか?
昆虫という道具立てには同じように同じ事実がその様に映し出されるかというとそれはわかりませんし、同じとは限らないでしょう。
ジルさんは、そのものになっていらっしゃらないで、その時の体験をその時、眺めてらっしゃるんです。
しかも、
こういう非日常的体験は、すべての方に起こるわけでなく限られています。
禅は、そういうことより、日常の生活体験をいうんです。
見性というように、見ることそれ自体が、性(証)です。
日常生活ひとつひとうことが脱落しているんです。
よろしくお願いします。
ボンさんへ6/29-③
白隠禅師の解説文について
>人は本来仏なのです 氷と水のように水を離れて氷がないように 人の心の中以外に仏はありません仏は自分の心の中に有ると言うのに、どこか、遠くに仏を求めるのははかない事です例えば、水の中にいて、乾きを叫ぶようなものです金持ちの子に生まれ、お金が無いと迷うのと同じです人の心は、地獄、修羅、餓鬼、畜生、人間、天国の六道をさ迷いますが、それは自分の愚痴から始まるのですその、同じあやまちの繰り返しから、いつか離れなければいけません大乗仏教の「禅定」は、褒め称えるにあまりあります布施や持戒のもろもろの行い、念仏、懺悔の修行などの沢山の善行も、全て「禅定」に帰するのです一回だけの座禅でも、今まで犯した罪はなくなりますそもそも、罪など何処にもないし、浄土は遠くはないのですあなたが人として生まれ、この「仏法」を、一度でも聞いて
感涙する人は、必ず本当に幸せをつかみますましてや自分をかえりみて、自分の心の正体を知ればその正体は無性なのですから、すでに下らない論理を離れているのです。
あなたが生まれ、苦しむ理由を本当に知りなさい、自分だけが悟って満足してる道を直し心はそもそも「無相」です、その相を忘れずに、天国に行くも地獄から帰るのも、大問題ではありません心が執着から離れれば、歌う時も舞う時も本来のあなたなりに自然に出来ます心の中にある、何のこだわりも無い空に、本当の智慧が月のように輝きますその時に何かを求めるべきです、心の汚れは必ず燃え尽きるのだから今、生きてるこの世が浄土なのです、そう思えた時にあなた自身が「仏」なのです。
>・・そもそも「無相」です、その相を忘れずに、
忘れてください。
「無相」という相を。
>天国に行くも地獄から帰るのも、大問題ではありません
天国も地獄もないです。
>心が執着から離れれば、歌う時も舞う時も本来のあなたなりに自然に出来ます心の中にある、何のこだわりも無い空に、本当の智慧が月のように輝きますその時に何かを求めるべきです、心の汚れは必ず燃え尽きるのだから今、生きてるこの世が浄土なのです、そう思えた時にあなた自身が「仏」なのです
①
執着のまま、歌う・舞う時、結果として、それは同時に執着を離れておるのです。
ですから、執着を離してから次に歌う舞うという二段階ではないんです。
②
心の汚れという実体はありません。
③
「そう思えた時にあなた自身が「仏」なのです」・・・
思いの内容が、どう思えても、その内容に関係なく、「仏」です。
これが悟りだろうか、いやまだまだ迷いのさ中だ・・などの考えに関係なく、
この身心は、悟っているんです。
理解したこと・認知の内容に左右されるのではないということです。
南泉禅師の言を借りると、「道は、理解したこと・理解しないことに属しない」んです。
よろしくお願いします。
三聖さんへ
随分と勝手に言いたい放題言ってくれますね。宇佐先生の病院に入院できないのは電磁波過敏症だからです。家中のブレーカーを落とさないと激しい動悸がしてきて眠れません。PC使うと体調を崩します。携帯の電源を入れっぱなしにすることもできません。こういう病気があることをご存知ですか?なまずさんが電磁波は体に害がないなどと嘘を言っていますが、影響があるとする論文は海外にはたくさんあるそうです。北里大学の医者で電磁波過敏症を診ておられる方も居りますし、携帯基地局が立つことで体調を崩して、裁判も起きていますがご存知でしょうか?日本では電磁波の害はほとんど知らされていませんが、海外では、子供に携帯電話を持たせない国もあるそうです。子供の方が、骨格が未成熟で影響を強く受ける可能性があるからです。電磁波過敏症で調べればたくさん出てきますので、もし興味があればどうぞ。もちろんそんな病気はないという主張もありますが、その逆もたくさんあります。ドコモウォークをやった塩田さん一家は神経症一家なのでしょうか?
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/antenna/antenna_kiji.php?no=1245
いずれにしろ、電磁波過敏症の人間にとっては電磁波で体調を崩しているのは事実なんです。ブレーカーを落とせば動機がしないで眠れるんですから、これ以上の証拠はないでしょう?そういう事情を伝えなかった僕にも非があるのかもしれませんが、安易に本気でないなどと決め付けるのは止めてください。
>ssさんは、聞いて答えを得る、そして、自分はこんなに苦しいんだわかってくれますかという訴え、自分はこんなにバカなんですという卑下することの慢で、相手の反応を得る、そういう「ストローク」を得ることで、安心しているようです。
確かにこんなに苦しい自分と訴えたことは認めます。ただそれは苦しさから逃れる方法を知りたかったからです。ですから安心しているようです、などと言われても何のことだか分かりません。
>あるいは、自分はこんなに苦しいんだ、こんな自分はどうしようもないという自分物語は、あいかわらずだという、苦しいけど、変わらない筋書きだということを再確認をしておられるようで、そういうことで安定を得ているようです。
そんな安定は糞くらえ。
もう分かりました。いくら訊いても、自分の求めるような解決法は無いのだということが。苦しい時は苦しいままで居ることにします。井上老師の聞法の方法を知ることができたので、こういうことも出来るようになってきました。
>苦しいと言いながら、そのおかげで、自分を他から認めてもらえる現在の状況でいたいのでしょう。
なるほど、確かにそういう時もありましたね。苦しい自分、悲惨な自分をアピールすることで、認めてもらいたかったのかもしれません。しかし現在の状況で居たいわけないでしょう。良くそんな酷いことが言えるものです。心に用事なしだからといって何を言っても良いわけではないですよね。ここは反面教師とさせて頂きます。
難病、慢性疾患などを歯科治療を通じて治療されている歯科医師の動画です。電磁波過敏症の患者が紹介されています。
本も書かれています。本当にこれが神経症なんでしょうか?そう言い切れる根拠はありますか?是非教えて欲しいものです。
ちなみに僕は、神経症から抜け出したくて戸塚ヨットスクールに入れて欲しいと親に頼んだこともある人間です。一年間で500万もかかるので無理でしたが。宇佐先生の病院に入院することが嫌なはずないでしょう。こんな病気が無かったら絶対に入院していました。
ssさんのコメントについて
よければ、皆さんも、不伝の伝、参照してください。
>そんな安定は糞くらえ。もう分かりました。いくら訊いても、自分の求めるような解決法は無いのだということが。苦しい時は苦しいままで居ることにします。
求めるような解決法は無し。
三聖のコメントなど糞くらえ。
生活上の事実に動かされるだけ。
つまり、
神経症関連サイト書き込み、PC・携帯から離れ、
目の前の課題(病気の治療、仕事、研究など)に
動かされ、教わり、生活工夫。
どうぞ「大事」になさいますよう。
三聖さんへ
お返事、そして、ご指導ありがとうございます。
ご質問の件ですが・・・
>>過去の非礼・・
>ということをおっしゃってますが、どういうことですか?
以前、他のサイトで三聖さんと同じ内容のことを、同じような文体で書かれていた方がいらっしゃったのですが、
当時のわたしには難解で、なかなか理解することが難しく、
(ほとんど理解不能と思っておりました)
そのため、何度も「難解すぎる!」、「間違っていると思います」などと文句を言ってしまっていたのです。
大変、失礼なことをしてしまいました。
ただ、わたしがその人と三聖さんが同一人物と早合点してしまった可能性もあります。
>>すんでのところで・・・
>どういうきっかけで・・何によって・・変わったのですか?
難解ではありましたが、
魅力のある文章ということは常々感じておりました。
そして、
真実はここにあるのだろうとも薄々感じておりました。
なかなか理解することは出来なかったのですが、
本を読んだり(その中には、三聖さんが批判されるスピ系の本もあるのですが・・・)、
ネットで調べていくうちに、
徐々に、三聖さんの仰っていることが腑に落ちてくることが多くなったのです。
もちろん、まだ分からないこともあるのですが、
理解した部分につきましては、
三聖さんの仰っていることをなかなか理解できない人の立場に立って、
自分なりに説明できるのではないかと思い、
おこがましいとは思いながらも、書かせていただいている次第です。
今回、ご指導いただけた部分に関しては、
もう少し消化してから、また書かせていただきたいと思います。
いつもありがとうございます。
ボンさんへ6/29-④
>ご指導いただけた部分に関しては、もう少し消化してから、また書かせていただきたいと思います。
教えを指導しているつもりはなし。
どうぞお気楽に。
先も言ったように、不伝の伝。
ただ、
それは違うよ。
余計な事して労多くて功なしだよ。・・といってるだけで。
神教のように、ある教えの型枠にはめ込んで、私という土台に、教えの訓練を重ね、気づきを重ねて、神という理想に向かって、段階的に、上に向かって進化アセンションしていくというのと別物です。
よく、仏道と他の宗教は同じと説くことがありますが・・
仏道という方便は、土台は、ないんだよ・・です。
いわゆる奈落の底に落ちて、「これが自分」が殺されて、それが「救い」です。
まず、自忘せんうちからあれこれ理解しても始まらんと、老師は、いいます、・・・消化できないことあるとき、そのままで結構です。
前進・消化できないまま。
理解する=理解しないです。
理解したことは考えの中だけということです。
神経症の範疇が、自己意識内に限定されると同様です。
ただ、
理解を内に使わない、何故なら、結果、使われてしまうから。
「自分」外に使う。
それで、・・
消化といえば・・・
ただ、縁にあったら、縁とひとつになる、縁を消化する、同化する、そのものにある。・・・縁に殺される。自忘です。
よろしくお願いします。
三聖さん
いつも珠玉のようなお言葉ありがとうございます。
宇佐療法的には、このような持ち上げは本来いけないのでしょうが、
素直にそのように感じております。
おかげさまで、
宇佐療法に対する理解(体験的理解)が深まったように感じております。
大変僭越ながら、
またわたしが理解したことを書かせてください。
わたし同様にお悩みの方にも、
もし参考になったとしたら、幸いでございます。
宇佐療法の要点は、
『自力を完全に放棄し、他力に徹する』ということに、
尽きるのではないかと思います。
『自力を完全に放棄し、他力に徹する』ということが、
言葉を変えて、いろいろと語られているというだけということのように感じます。
例えば、
「心に良し悪しなし」という言葉ですが、
これは、良し悪しをつけるという自力による価値判断を放棄するということかと思います。
「心に無責任。心はほったらかし」という言葉は、
心をコントロールしようという自力を放棄するということかと思います。
「心に対して言葉を使わない」という言葉は、
心の状態を言葉を使って概念化しようとする自力を放棄するということかと思います。
「混乱している、それで満点」という言葉は、
混乱している心の状態を改善しようとする自力を放棄するということかと思います。
宇佐先生の言う「わからなさ」という言葉は、
分かる、分からないという自力を超えた境地のことかと思います。
宇佐療法では、
心の状態だけではなく、
外側の状況に対しても、自力を完全に放棄することが求められます。
「生活上の必要に動かされ、手を出していく」という言葉は、
縁によって生じた、今いる環境に対して、
良し悪しをつけたりという自力による価値判断を放棄し、
ただ外側の状況の求めに応じることだけ必要ということかと思います。
不平不満を言わないということも同様かと思います。
不平不満を言うことは、
その状況に対して、自分勝手に悪いと価値判断することによって、生じます。
自力による価値判断なくして、不平不満は生じません。
だからこそ、
自分勝手な価値判断を放棄し、
「その事実に負けていく」という、従順な態度が求められます。
三聖さんの言葉でハッとさせられた言葉に、
(そういうのは沢山あるのですが)
「自分を責めるから苦しくなるのです」というのがあります。
正直、何十年も神経症をやっていながら、
自分がどうして苦しいのか、その本当の理由は分かっていませんでした。
自分勝手に、
本来は実体のない『自分』というものを認め、
自分勝手にその『自分』を概念化し、その概念化された『自分』を自分勝手に悪いと価値判断し、責めることによって、苦しんでいたんですね。
社会では、反省することが美徳とされることもあり、
反省している自分は、良い奴だと思ってしまっていた部分もありました(笑)。
本当の意味での反省というのは、
三聖さんが仰っているように、
行動それ自体を振り返り、その行動に問題があった場合、
その行動それ自体の改善点を探していくということであり、
その行動をした自分を振り返ることではなかったのですね。
わたしは、自分を振り返ってばかりで、
「おれはどうしようもない奴だと」と結論付け、
自分というものを差し挟まない、行動それ自体を振り返ることは、
ほとんどしてきませんでした。
どうりで、同じ過ちばかりを繰り返すはずです(笑)。
このように自分勝手に自分を概念化したり、
心の状態に良し悪しをつけ、自力によって改善しようとしたり、
縁によって生じた周辺の環境に対して、
自分勝手に良し悪しという価値判断をしたりという、
自力を完全に放棄することが求めることが宇佐療法の主眼であり、
自力を完全に放棄することによって、縁とひとつになり、
自忘することで、
元々いた場所である、なんの問題もなかった場所に戻れるということなのだろうと思います。
長文失礼いたしました。
間違っているところがありましたら、
またご指摘いただけたら幸いです。
kouさんからコメント頂きました。
http://sinkeisyou.jp/blog/%e7%a5%9e%e7%b5%8c%e7%97%87/%e7%a5%9e%e7%b5%8c%e7%97%87%e3%81%ae%e4%ba%ba%e3%81%ab%e3%81%a8%e3%81%a3%e3%81%a6%e8%89%af%e3%81%84%e3%82%b5%e3%82%a4%e3%83%88%e3%81%a8%e3%81%af%ef%bc%9f/#comment-2343
左サイドバーにあるお勧めの書籍の真ん中の本。
すごく興味あるなぁ。w
三聖さんへ
>心を変える必要があるかと思いますが、自分の心を変えるとは、自分の身心を、自分を超えた大いなる存在にゆだねるということです。
つまり、自分を概念化しないということです。
上記のわたしの言葉なのですが、
宇佐療法的文脈においては、「心の変化」という言葉は良くないかと思ったのですが、
自力を放棄し、他力に身も心も委ねる、
『自力→他力』という、
お釈迦様や親鸞が経験された劇的な変化、ターニングポイントを「心の変化」と表現させていただきました。
そして、他力に全てを身を委ねるのですから、
自力の発動である自己概念化を放棄するということでした。
『自力→他力』への『心の変化』=すべては与えられるまま、そのまま=いつも通り
ということでした。
誤解させてしまう表現で申し訳ございませんでした。
三聖さんへ
度々申し訳ございません。
ジル・ボルト・テイラーさんの動画なのですが、
じつは、最初紹介することを躊躇いたしました。
確かに、ジルさんの体験自体は、
脳卒中という特殊な状態において体験されたものですので、
誰もに当てはまるものではないかと思います。
けれども、その特殊な体験からジルさんが導き出した結論は普遍的なものと思いました。
ジルさんは、このようなことを言っております。
「わたしたちは本来、五感を通して周囲の環境とひとつになっているのです。けれども、そこに「わたしはいる」と『私』を介在させてしまったその瞬間、ひとつであることから分離してしまうのです」と。
このことは、
三聖さんが仰っている、
「本来実体のない『自分』というものを立ち上げた瞬間、自分と世界、自分と他人という、差別・対立の世界が立ち上がってしまう」ということと、
ぴったりと符合していると感じました。
そして、
ジルさんは問いかけます。
「どちらを選びますか?
『わたしは脳科学者です』と言って1個の堅実な個人を選んで他の切り離されることか、
それとも、なにものでもないものになって、他とひとつに繋がることか、どちらを選びますか?」と。
ジルさんの体験は、
禅の悟りとは別物かもしれないとは思っていたのですが、
自分を概念化することで他と切り離されてしまうということが、
とても分かりやすく表現されていたので、
紹介させていただきました。
ただ、こちらもまた、
宇佐療法的文脈からは外れてしまったかもしれません。
ブログ神経症即是空の管理人さんの書き込みを読んで、
思うところがありましたので、
また書かせていただきます。
>健康人と同じ様に心の外の事、実生活をただ淡々とこなして行けばそれで満点です。
とのことですが、
これは間違いです。
神経症にお悩みの方を間違った方向へと導いてしまう可能性があります。
健康人と同じではいけません。
何故かと言いますと、
健康人も、神経症にお悩みの方同様に、
実体のない『自分』を認め、その実体のない『自分』基準で、
生活しているからです。
そのために、
健康人と同じようにすることは、
宇佐先生が戒めている「自分にとって」を基準に行動することになり、
自分対自分の努力から離れられなくなります。
宇佐先生、三聖さんが仰っていることは、
「今いる環境、その生活上の事実にとって」を基準に行動を取るということです。
このように、
ネット上の神経症指導者の方々は、
三聖さんを除いて、皆さん『私』という問題を解決を出来ていないまま指導しているというのが現状です。
そのために、三聖さんが言っていることを呑み込めず、
そこから遠ざかって、間違った指導をしております。
それなのに、
「質問は答えないほうが親切なんです」とか、
「議論は無意味です」とか、
言っているご本人は善意のつもりなのでしょうが、
ただ単に、何も分かっていないというだけなのです。
>小難しい知識なんて
いくらあろうが、また理解した所で全治とは関係ありません。
とのことですが、
これもまた、神経症でお悩みの方に、
誤解を与えてしまいやすい表現です。
生活上の事実に動かされているとき、
知識や理解はまったく必要ありません。
尿意を催してトイレに行くときに、
知識や理解は必要ないのと同じことです。
ただ、必要に駆られて動かされているだけなのですから、
当たり前のことです。
宇佐先生にしろ、三聖さんにしろ、
知識や理解を必要としないところに持っていくために、
知識や理解を手を変え品を変え、いろいろな言葉の表現で、
伝えようとしているのです。
神経症解決のために指導している方が、
謙虚に三聖さんの言葉に耳を傾け、自分の間違いを正し、
それに感謝したという例をわたしは知りません。
これが、神経症の世界の現実です。
ポンさんへ
いいでしょう一度だけ相手しましょう。
貴方の一連の投稿数、時間、長さから見て普通に働いてるとは到底思えませんね(笑)
別に私は貴方に答えたわけじゃないのに、出しゃばりすぎで
失礼と言うもので、まさしくそれこそが神経症の姿です(笑)
私は何も神経症の人達を指導してるわけでもなく、
28年前に宇佐先生から学んだことを中心に今の精神医療問題も踏まえて思ったことを語って来ただけです。
たまたまこのサイトを見つけ、トラックバックをしたまでの事。
何も貴方達の考えに批判めいた事等、最初は書いてないでしょう。
ところが三聖さんが、わざわざ私のを引用してあれこれ
書くので何様ですかと言う所。
放置してましたが、久しぶりに来て気が変わって返信しただけ。
別に私は貴方達に指導をお願いしたこともないのだから大きなお世話でしょうが。
健康人では考えられませんね。
さてまずは貴方の困った長文の一部だ。
(ネット上の神経症指導者の方々は、
三聖さんを除いて、皆さん『私』という問題を解決を出来ていないまま指導しているというのが現状です。
そのために、三聖さんが言っていることを呑み込めず、
そこから遠ざかって、間違った指導をしております。
それなのに、
「質問は答えないほうが親切なんです」とか、
「議論は無意味です」とか、
言っているご本人は善意のつもりなのでしょうが、
ただ単に、何も分かっていないというだけなのです。)
貴方が勝手にこじつけて解釈してるだけで、健康人と同じ様に云々で間違いない。宇佐先生もそう言われてた。
つまり自己の都合がないわけだ。
ここで言う健康人は勝手な事をしてる人の事じゃないの
は言う必要はない。
その後の理屈も普段から同じ事を言ってる。
当然私は私と言う問題を解決してる。
また三聖さんの言ってる事も呑み込めてるけど、
別にそれでも動かなきゃしょうがないだろうって事だ。
指導はしてないので正しい情報は流してきたわけだ。
悩んでる人に、わけ知り顔で貴方はわかってないなんて
言った所でしょうがないだろ。
それら全部踏まえて、小難しい理屈はええのや。
不問。貴方が次から次と気になる事、要は強迫観念が出てきて投稿をやめられないのと同様に、質問に答えたってまた
疑問がわく。その問答は実生活から離れてるだろ!
だから全て置いとくのがいい。
そして議論が無意味なのは、他人に文句をつけようと思えば
どうとでもできるからであり、貴方達がそれをやめないから。
そして動かにゃかしょうがないからだ。
私は十分に分かってる。ただ単にわかってないのは
貴方であり、だからこのような愚行が止まらない。
他人のブログで、無関係な私に絡んでくるなんて尋常
じゃないからね。
偉そうにするならなら貴方も三聖さんも自分のサイトでも作ってやればいいが、それは怖いのかな。
まあ任しますけど。
これもまた、神経症でお悩みの方に、
誤解を与えてしまいやすい表現です。
>これも貴方の勝手な決めつけで、わかりやすいと言われてます。宇佐先生からお褒めの言葉をいただいたこともあります。残念でした。
謙虚に三聖さんの言葉に耳を傾け、自分の間違いを正し、
それに感謝したという例をわたしは知りません。
>普通の人が見たら爆笑だね。私は何も間違ってませんし宇佐先生と同様に表現の工夫もしてきました。
私の事何も知らないくせに。
謙虚さはむしろ貴方達が持つべきです。何でも自分はわかってるって匂わせすぎで恥ずかしいです。
世の中には上には上がいますからね。
仮に神経症が治ってたとしても社会性っての有るのでね。
さて売り言葉に買い言葉とは言え、きつすぎたかわかりませんが、お互い様と言う事で。
これをそのままにできないなら貴方達の説得力はゼロ。
と言う事でそのまま前進して下さいな。
元気でやって下さい。
実はこの件に無関係にブログをやめました。
だから先日お邪魔したと言うのもありますが。
1年以上やりましてもういいかと思いまして。
皆さん残念がられてありがたい事です。
と言うわけでおそらくもうここにも来ませんので。
kouさん
お返事ありがとうございます。
丁寧に読ませていただきました。
こちらこそ、
言葉がキツイところがあり、申し訳ございませんでした。
kouさんの書き込みを読んで、
学ばれる方も多いのではないかと思います。
kouさんの仰るとおり、
わたしのように理屈ばっかりじゃダメなわけでして(笑)。
三聖さんも仰っている通り、
分かったら、いや、分かっていなくても、
そんなことは棚上げをし、実践、実践ですね。
こちらのブログに目を通している方でしたら、
実践の大切さ、
生活上の必要に動かされていくことの重要性は、
身に沁みて感じていることかと思います。
けど、神経症でお悩みの方の中には、
人生に一筋の希望の光も見出せず、絶望感が酷すぎて、
自殺念慮に囚われてしまっている方もいらっしゃるのではないかと思います。
そんな方に対して、
ただ単純に、「動きなさい」と言っても、
人生に希望が見出せないのですから、もうどうでも良いわけです。
そんな方に向けて、
わたしはメッセージを発信しているのであって、
kouさんが仰っていることをすぐに呑み込んで実践し、
それを継続していけるような方には、
わたしが言っているようなことは不必要かと思ってますし、
そもそも、そんな優秀な方は、
わたしの言葉になんか見向きもしないと思ってます。
>謙虚さはむしろ貴方達が持つべきです。何でも自分はわかってるって匂わせすぎで恥ずかしいです。
仰るとおりです。傲慢さはわたしの欠点です。
いつも、これがどうにかならないかと思っております。
その方法があれば、そのことを真剣に学びたいです。
>この件に無関係にブログをやめました。
これはわたしの勝手な意見なのですが、
ブログを閉鎖する必要はなかったのではないでしょうか?
いろいろとご事情はあるかと思いますが、
kouさんの文章を読むのを楽しみにしている方もいらっしゃるようですから、
生活に支障のない範囲で、無理しないで、気が向いたときに更新するという選択肢もあるのではないでしょうか?
それにkouさん自身、基本的に文章を書くことは嫌いではないという印象もあります。
神経症の有無に関わらず、
このような、○か×か、オールオアナッシングのような極端な思考体系は、
とても神経症的かと感じてしまいます。
>と言うわけでおそらくもうここにも来ませんので。
これも同様で、
別にそんな風に決め付けず、
気が向いたら、覗いたら良いのではないですか?
なんとなくですが、
kouさんが、ここのサイトを訪れないというのは、
興味がないというより、
神経症関連のサイトを覗いていることを一種の敗北と感じているような気がします。
わたしはこちらのサイトは、
いろいろなことが学べるとても魅力的なサイトと感じ、
今は頻繁に訪れていますが、
飽きたらあまり覗かなくなるでしょうし、
サイトを見る見ないを現時点で決める必要はないと思います。
議論は無意味と仰りますが、
それはどっちが正しい、間違っている、勝った負けたの議論を念頭においているからであり、
お互いがお互いを尊重し合いながら、自分の信念を真剣にぶつけ合い、
それによって、お互いが有益な学びを得るための議論は、
とても意味のあるものだと思います。
またレスしてる様ですね。もう見ませんけど。
ポンタさんに、ちょっと忘れてたので。
指導者が宇佐先生や三聖さんに感謝しないのが神経症の世界って言うのも、間違いです。
また私には関係ありません。宇佐先生には感謝してますけどね。
それと宇佐先生と三聖さんを並べるのはおかしいです。
素性もわからない、単にあなたが心酔してるだけの事なので。
ついでに言っておきましょう。
私がやめたブログには350以上の記事がありまして、全部じゃないですけど宇佐先生の考えを元にしてあるものが多かったのです。それを素人の方にもわかりやすくしてね。
基本的には貴方達と考えは変わらないはずです。
この1年で宇佐先生の宣伝を一番したのはおそらく私でしょう。
実際それ程宇佐先生に心酔してないにしても、その私に絡むのは
おかしな話です。
私の事に共感してよくなった方にも失礼で、ただ単に差別化を図り自分達の価値を上げたいがためにしか思えません。
患者の事など何も考えてないと言えるでしょう。
一日で一人で200以上の記事を3時間以上かけて見てくれてる方もいました。
ここからどれだけの人がアクセスしてきたかは把握してます。
それをろくに読みもしないで、1記事の断片だけを引用して細かい事で絡むのは問題があります。
前後の文章とのつながりもありますし。
はっきり言って貴方達のわかってる事は全て私はわかっており
その何倍もわかってるんです。
表現は相手のレベルにも合わせますし、それをいちいち指摘するのは幼稚。自分のできる限りじゃなく健康人と同じ様に
で何の問題もないわけです。
何も知らない人が見たらどう思うでしょうか。
だから訂正したわけです。
そもそも好意的なともかく批判的なのは法的にもどうかと思う。
実際、貴方が怒ったのは記事の冒頭は
某サイトでなかなかレベルの高い議論をしてますねえ。
でも脱線です。
こんな感じで、実際ここの事ですが、見てるほとんどの人はわからない。それを貴方は名指しで批判してるのは過剰反応だし問題がありますね。
私が言ってるのは、患者の質問に答えるのはいいですが、
ことさら自分達の知識の誇示の為に必要のない宗教系の話や普通の人が聞きなれない話はする必要がないと言うです。
患者がこんがらがるだけですから。
余計なんですわ。
不安は自分ではどうにもできない。どんな考えが浮かぼうがおかしくなくて、心は置いておけばいい。今すべき事を考えて実行
する事が全治。これだけで十分です。
先動くことです。わかる事では治りません。
本は治った後読むといいでしょう。
準備なしで実生活が大事です。
指導が云々と言ったって、貴方達の指導してるここの人も
長い事悩んでらっしゃるし、成果なんて上がってなくて他の
指導者の事を言うのは恥ずかしいです。
貴方達は根拠のない自信とプライドだけはあって、
意味もなく上から目線。
他の者や心酔してる人以外の者の意見は一切認めない。
健康人のようなゆったり感がない。
見るものが見たら神経症が治ってるかどうかぐらいわかります。
このように自分は治りもしてないのに指導する連中の事をくさみと言い、詐欺ではないですがお話になりません。
ついでに教えてあげますが、世の中の精神疾患のほとんどは医者が金の為に勝手に作ったもので実態はありません。
薬を売るためにできた病名もあるくらい、DSMもいい加減です。
人任せはいけないです。
皆さんは自分で調べて行動して下さい。
管理人さんへ
ある程度したら、私への攻撃はここの主旨と何ら治療と
関係ないので、できれば削除願います。
勿論、私の訂正の記事も同様で結構です。
もう当分来ませんが、先の事はわかりません。
早く良くなられるよう願っております。
kouさん
お返事ありがとうございます。
丁寧に読ませていただきました。
kouさんは、
わたしが怒っていると思われているようですが、
わたしは全然怒っていません。
逆に有難く思っております。
kouさんは、
わたしのコメントをkouさんに対する攻撃と知覚されているようですが、
そのこと自体、間違っていると思います。
kouさんは、
不特定多数が閲覧できるこちらのサイトにコメントを寄せられ、
わたしはそのコメントを読んで、
自分の思ったことを書いたまでのことです。
別に嫌がらせをしようと思ったわけではなく、
わたしの書いたことが、
他の方に参考になるかもしれないと思ったからです。
神経症でひどく悩んでいるうちは、
kouさんと三聖さんの違いが分からなかったりします。
その違いを明確にしたいがために、あのようなコメントになりました。
キツイ表現があったことは認めます。
申し訳ございませんでした。
けれども、わたしは今でも、
「健康人と同じように」という表現は間違っていると思っておりますし、
間違っているという表現に語弊があるとすれば、
間違った受け取り方をしてしまう可能性が大きい表現だと思っております。
そして、今でも、
kouさんは、『私』の問題を解決出来ていないという考えには、
変わりはありません。
>健康人のようなゆったり感がない。
宇佐療法的に言えば、このように心の状態を概念化することは、間違ってますね。
もちろん、kouさんは、そんなことは百も承知であり、
ただ、わたしを攻撃するために便宜的にこのような表現を使ったのであり、
「わたしの発言の一部分を取り出して批判するだなんて、
ふざんけんな!」と思うかもしれませんが、
神経症にお悩みの方を間違った方向へと導いてしまう可能性のある表現であり、
わたしがそう指摘することで、
もしかしたら、「なるほど」と参考にしていただける方もいらっしゃるかもしれないと思い、
コメントさせていただいております。
決して、kouさん1個人にだけ向けて書いているわけではなく、
それは、わたし自身の理解を深めるためでもあり、
読んでくださった方の参考になったら良いなと思っているためでもあります。
kouさんは百も承知かと思いますが、
ゆったりしているゆったりしているまま、
イライラしているときはイライラしているまま、
ゆったり=GOOD、イライラ=BADというように、
心に良し悪しを付けないことが大切ということですね。
>先動くことです。わかる事では治りません。
>本は治った後読むといいでしょう。
>準備なしで実生活が大事です。
前回のコメントにも書いた通り、
わたしは、
「実生活が大事なのは分かっているけど動けない、動く気になれない」、
「動いてもすぐに自分対自分の努力にはまり、苦しくなってしまう」
そんな方に向けて書いています。
動けないなら動けないままに、
それでも救いを求める気持ちは忘れずに、
ネットで調べたり、本を読んだりして欲しいと思っております。
kouさんの仰ることを素直に実践できるような優秀な方は、
わたしの書き込みは不必要かと思っております。
わたしとkouさんとのやり取りを通して、
もしかしたら、神経症解決への糸口を発見してくれる方もいらっしゃるかもしれないではないのですか?
それを自分への攻撃と捉えるのは、ちょっと間違っていると思います。
皆さん同様、わたしも責任を持って、
自分の信じるところの考えを書かせていただいておりますが、
それに対して、攻撃と捉え、批判は一切認めないという気持ちはまったくありません。
と申しますか、大歓迎です。
その方の指摘が間違っていたり、見当違いと思えば、
そのように返信させていただきますし、
その方の指摘が当たっていれば、その方に感謝したいと思っております。
このようにして、
こちらのサイトのレベルが高まれば、
それはとても素晴らしいことではないでしょうか?
「神経症とは治そうとする病気」
これは宇佐先生の言葉であり、
真実をついたとても鋭い言葉だとは思いますが、
けれども、
少しピントがずれていて、
そのために、神経症で苦しんでいる人を混乱に陥らせてしまう可能性もある言葉だと思います。
「神経症とは治そうとする病気」ということですが、
治そうと思うためには、
その前に、治したいと思う対象の存在が前提としてなければいけません。
そして、治したいと思う対象とは何でしょうか。
それは、苦しみです。
それでは、どうして苦しみが生じてしまうのでしょうか。
端的に言ってしまえば、
それは、自分で自分を責めるからです。
自分で自分を責めることがなければ、
神経症的苦しみが生じることは不可能です。
神経症的苦しみが発生するメカニズムは、
まず、実体のない『自分』というものを認めていることから始まります。
そして、その実体のない『自分』を眺め、
良し悪しという価値判断を下します。
良しという価値判断を下した場合は苦しみは生じませんが、
悪いという価値判断を下した場合、
「こんな自分ではいけない」と自分で自分を責め、苦しみが生じます。
そして、その苦しみを消したいがために、
自分で自分を作り変え、自分が受け入れることができる、
理想的な自分になろうとの努力が始まれば、
その苦しみはエンドレスになり、神経症的苦しみとなります。
このことが、
「神経症は治そうとする病気」と言われる由縁ですが、
本当の原因は、自分を責めることにあります。
この本当の原因に気がつかずに、
「神経症とは治そうとする病気」という言葉を鵜呑みにすることで、
治そうとする行為に対して、
「それはいけないことだ」と罪悪感を感じてしまうようになります。
罪悪感とは、
自分自身が間違ったことをしたと認め、
「いけないことをしてしまった。なんてダメな奴だろう」と、
自分で自分を責めることによって生じます。
「神経症とは治そうとする病気」=「治そうとする行為はダメ」と思い込んでしまうと、
「神経症関連のサイトを見たり、書き込みしたり、本を読んだりすることはいけない。
よし、見たり、読んだりするのはやめよう」と、
自分で自分に命令し、自分で自分を動かそうとしてしまいます。
そして、自分自身で作ったその掟を破ると、
「ああ。また見てしまった。おれはなんて意志薄弱なんだ。
だからいつまで経っても神経症は治らないのだ」と、
自分を責め、また苦しくなります。
このように、
「神経症とは治そうとする病気」という言葉は、
この言葉によって、スムーズに実生活に戻れる方にとっては有難い言葉ですが、
それ以外の方にとっては、
自分を責める原因になり、さらなる苦しみを生じさせてしまうという、
諸刃の剣のような言葉です。
なので、
「神経症とは治そうとする病気」と言うより、
「神経症とは自分で自分を責める病気」と言ったほうが、
より正確かと思います。
神経症で長く苦しんでいると、
自分で自分を責める癖が習慣になってしまっていますので、
そのような方に、
ただ単純に、「生活上の必要事に手を出しなさい」と言っても、
それが出来なかった場合、
すぐに自分を責めることになってしまい、
さらに苦しんでしまうという悪循環に陥ってしまうこともあります。
そういうこともあって、
なかなか生活上の必要事に動かされることが出来ない人に対しては、
無理に動くことを勧めるのではなくて、
まずは、
自分を概念化し、その自分を責めたり、
自分で自分を動かそうとすることはやめて、
自分を赦すことを学ぶことから始めたら良いのではないかと、
わたしは思うのです。
ボンさんへ7/6
>自力を完全に放棄し、他力に徹するということが、
言葉を変えて、いろいろと語られているというだけということのように感じます。例えば、
「心に良し悪しなし」という言葉ですが、
これは、良し悪しをつけるという自力による価値判断を放棄するということかと思います。
「心に無責任。心はほったらかし」という言葉は、
心をコントロールしようという自力を放棄するということかと思います。
「心に対して言葉を使わない」という言葉は、
心の状態を言葉を使って概念化しようとする自力を放棄するということかと思います。
「混乱している、それで満点」という言葉は、
混乱している心の状態を改善しようとする自力を放棄するということかと思います。
宇佐先生の言う「わからなさ」という言葉は、
分かる、分からないという自力を超えた境地のことかと思います。
また、せっかくお話してくださったのをぶち壊すようで恐縮ですが・・・ボンさんはご辛抱できる器量があるので申し上げます。
自力を完全に放棄し、他力に徹しようとするということ自体余計な作業です。
おのずとそうであるんです。
結果から申しますと、自力と仮に呼ぶも「他力」なんです。
放棄する自力の「自」、「これが自分」もないんです。
「他力」とは、自力他力を超えた、はたらきを言いようがないのでそういったんですね。
そういう言い方、よくしますね。
「無」というも有無の無ではない、有無を超えたところです。
しかし、それは、各自、証される必要があり、観念的な理解だけで鵜呑みにできませんが・・・。
ですから、いいたいことは、自力他力を放棄することがテーマにならんように・・・
終始、眼前生活上のことだけですね。
心に良し悪しなしは、良し悪し問題にする心は現象として立ち現われ消えるが、固定的な実体ないということなんです。
ですから、
対象化出来ない、良し悪しつけようが実はないんです。
これは、用事する心がないということです。
「心に用事なし」と聞けば、さらに心に用事しないように用事する。「心あるがまま」と聞けば、心にほっておこう、あるがまましようと用事する。あるがままと認知してしてたら、それはそうでないんです。十分おわかりでしょう。
立派に回復された管理者さんの多くの神経症サイトが内面の用事に誘うことになってしまっている。しかし、ご本人たちは立派に日常生活をこなしているはずです。しかし記事にすると良い事もいいつつ趣旨と違うことがしばしばなんです。それが、宇佐療法で「神経症から離脱」したい方にとっては困る。
話元に戻すと、趣旨としては、目の前。
間違ったままでも、・・・とにかく、目の前・・でなんとかなる。
空念仏も、念仏しているうちにわからなくなって、本念仏。
目の前にすでに関わっているんですから、そのようにあるままなんです。
目の前もこちらもないんですがわかりやすく・・・
「目の前」に動かされれば、後は、なんもいうことないんです。
しかし、多くの方が、納得しないので、講話もあるんですが、・・・
話せば話すほど、おつりがくるんですね。
理屈するのは、ご承知のように、納得しわかることから離れて、理屈抜き目の前がその趣旨です。
ここで、読者さんが、もし、そうか、そういうことかと理解したとします。
その時、何かよいことを理解しても、それを、先に掲げないで、PC消したら、どこかに、棚上げです。
先に掲げると、自分を持ち運ぶことになり、よくない形になります。
いつもいわれるように、事実が考えより先です。
・・・・「心に無責任。心はほったらかし」「心に対して言葉を使わない」「わからなさ」という言葉も上記と同様です。
・・・・「境地」を求めるのでなく、
必要に動かされ、とにかく、とりあえず、道具を手に。
理屈抜き目の前です。
>なかなか生活上の必要事に動かされることが出来ない人に対しては、
無理に動くことを勧めるのではなくて、まずは、自分を概念化し、その自分を責めたり、
自分で自分を動かそうとすることはやめて、自分を赦すことを学ぶことから始めたら良いのではないかと、わたしは思うのです。
「ゆるされる」は、結果なんですね。
ゆるそうといくら観念上念じても言い聞かせても無駄でしょう。
以前申したように
結論から言うと「ゆるすべき自分」はなかったと、「ゆるしていなかった」の結果、さらに、そう気づくんです。
ですから、そういう自分を相手どって自分対自分の作業することは余計な苦労ばかりで功なしになります。
それよりは目の前。
自分を認め自分相手に「事実に動かされるんだ」という考えで自分を取り扱い自分に注文すると動けなくなることもあるでしょう。
動けなかったら「動けない」まま、動かんでいい。
たとえば尿意をもよおして、動けなかったら「動けない」まま、動かんでいい。
動く時には動く。
動けるか動けないかの自分をテーマにしないことですね。
「動けない」という言葉でくくられていることが多いようです。
とにかく、いろいろ、考え・言葉がめぐる、出ては消え出ては消え、それを使わないでいいんです。サイバーメガネにいろいろな観念が言語化して現われても、その先の実物を見て触って感じていたら言語には焦点があってませんから、ないと同様なんです。
メールですからこういう「へ理屈話」だけで終わってしまいますが・・
たとえ、どんなによく聞こえても、PC消す時は、さっと離れて、もう、違う目の前が広がってるでしょう、そこに、とにかく、眼前生活ですね。
よろしくお願いします。
kouさんありがとうございました。
おっしゃる通りだと思います。
私自身も気を付けたいと思います。
あと、精神科医の話は、そのうち大きな問題として、騒がれる日が来るかもしれないですね。
kouさんのコメントは残しておきたいです。
三聖さん
お返事ありがとうございます。
「ぶち壊すようで」だなんて、とんでもございません。
三聖さんがフォローを入れてくださるので、
わたしも自分の思うところを、安心して自由に書くことができるんです。
なので、ぜひ一切の遠慮なく、ぶち壊しちゃってください。
そのことで、わたし自身も含め、
読んでくださっている方が、目の前とひとつになる契機になることが、
一番、重要なことと思っております。
お忙しい中、いつもありがとうございます。
ボンさん
当方のコメントは、相変わらず、ここでは、場違いのようです。
場違いな書き込みに寛大な管理人さんに、お礼を言って、去ることにします。
管理人さん、ありがとうございました。
また、なまずさんが、いらっしゃるかもしれません。
ご本人にも読者さんにも、もうコメントはしませんのでご安心を。
ボンさん、よろしければ、また、お話ししましょう。
ありがとうございました。
合掌低頭
ご丁寧にありがとうございました。
下のほうにありましたが、rurumikさんからコメントいただいております。http://ameblo.jp/rurumik/
「数珠のようなお言葉」を感謝しているそうです。
私には、ポンさんと三聖さんの長文の言葉が難し過ぎて分かりませんでした。申し訳ないです。
三聖さん
そうなんですか。
三聖さんのような方は、
どうしたって排除されてしまう傾向があるのでしょうか。
多くの方が、
わたしも盲目的に三聖さんに心酔しているだけ、
そう思ってらっしゃるかもしれません。
三聖さんは、「千聖を慕わず」と仰っているのに。
わたしが、三聖さんを持ち上げ、太鼓持ちのようになっているのは、
宇佐先生はご高齢に達し、その著書も入手困難になり、
三聖さんの書き込みもあまり重要視されることがないという、
現状を鑑みてのことでもありました。
なので、敢えて、他の指導者の方と三聖さんの違いを明確にした上で、
論を唱えてきました。
他の指導者の方と三聖さんは同じことも沢山仰っていますが、
共通点を指摘するよりも、違いを指摘した方が、
読者の方も混乱することなく、三聖さんが仰っていることに、
真剣に耳を傾けるようになるのではないかと思ったからです。
人は学びたいと思っていることしか学ぶことはできません。
もしも、自分が分かっている、理解していると思い込んでいたとしたら、
それ以上の学びは不可能になります。
三聖さんは、
テレビにも出演されている科学ジャーナリスト、
竹内薫さんの『99,9%は仮説』という本はご存知でしょうか。
数年前にベストセラーになった本です。
副題は、『思い込みで判断しないために』です。
この本には、
「人の頭の中は、思い込みという名の仮説で満ち溢れている。そして、一旦、その仮説を事実と思ってしまえば、
それ以外のデータは無視されてしまう」
というようなことが書いてあります。
これは、神経症にも、すごく通じる話かと思います。
わたしたちは、過去のデータから、
「わたしは・・・である」という仮説を作り上げてしまいます。
そして、一旦、その仮説を事実と思い込んでしまいますと、
そうでない自分に関するデータは、無視されてしまいます。
自分から見た自分というのは、
常にひとつの仮説に過ぎないのだと思います。
三聖さんの言葉を借りて、もっと言ってしまえば、『虚構』です。
その虚構を事実と思い込んでしまえば、
それ以外のデータは無視され、その虚構に従って、
自分勝手な虚構のストーリーを紡ぎ上げてしまいます。
他の指導者の方々は、
本当に宇佐先生の意味するところを理解されているのでしょうか。
もしかしたら、それはただ単に理解していると思い込んでいるだけで、
誤解している部分もあったりするということはないのでしょうか。
わたしは、宇佐先生の言葉でも、
決して、盲目的に鵜呑みにすることはしないで、
自分自身の内面の真実に従いたいと思ってます。
そのために、
宇佐先生が仰っているという、
「健康人と同じように」
「神経症は治そうとする病気」という言葉に対して、
違う角度からわたしの意見を述べさせていただきました。
同様に、三聖さんの言葉に対しても、
盲目的に受け入れているわけではないのです。
管理人さんは、
とても難しい立場かと思います。
このような素晴らしいサイトを立ち上げてくださったことで、
わたし自身は本当に多くのことを学ばせていただくことができましたが、
管理人さんの立場からすれば、
このようなサイトを維持していること自体、
神経症からの解放を遅れせてしまっているのではないかという、
思いも抱えてらっしゃるかもしれません。
けれども、
神経症からの解放を目指すサイトとして、
本当に、三聖さんの存在は場違いなのでしょうか。
もの場違いだったとしても、
その理由を管理人さんは明確にすることは出来るのでしょうか。
生意気言ってごめんなさい。
ただ、仮説を事実と思い込み、
それ以外のデータを無視してしまうことは、
もったいないなと思ったまでのことです。
>三聖さんのような方は、どうしたって排除されてしまう傾向があるのでしょうか。
下のコメントでありますけど、rurumikさんが「数珠のようなお言葉」と感謝してますよ。良かったじゃないですか。
こんなサイトよりも、今後はrurumikさんのサイトでコメントしたほうがよろしいのではないですか?三聖さんもコメントされているようですので。
あと、三聖さんをもっと知ってもらいたいのでしたら、このサイトより、もっと規模の大きい斎藤さんのサイトのほうに書き込むほうがいいと思いますよ。
当サイトは、「分かりやすく、短く、再現性がある」を目指しているのですが、今までポンさんや三聖さんにいろいろコメント頂きましたが、それでもまだ何か不足してますか?それは本当に読んでいる方にとって必要ですか?
共通点を指摘したほうが、読者の方は混乱しないのではないですか?
もちろん多くの読者の方が、「神経症から解放されました」という内容であれば、どんな内容でも大歓迎ですよ。それが正解ですから。それが一番です。
管理人様へ
いつも読ませて頂いています。ありがとうございます。
色んな方のコメントを読ませて頂けて、勉強になります。ありがとうございます。すみません、コメントさせて下さい。
ポンさんへ
ポンさんのコメントを読ませて頂けて、たいへん勉強になりました。ありがとうございます。
私も、自分のブログで、三聖さんから、珠玉のお言葉 ^ ^ を、たくさん頂いております。もしよかったら…コメント欄、ご覧になって下さい。
私は、宇佐先生、三聖さんの教えに巡り会えたこと、たいへん有難く感謝しています。時に、前に進めず、動けず、右往左往、してしまいます。迷いも出て来ます。でも、自分自身の内面の真実に従いつつ(ポンさんが書いて下さったように)、続けてまた、教えの通りに進んで行こうと、思っています。
URL http://ameblo.jp/rurumik/
管理人さん
お返事ありがとうございます。
自由に書かせていただけたこと、
とても有難く思っております。
管理人さんが仰っているように、
三聖さんの言葉は一見難解です。
しかし、実際のところ、
三聖さんがお伝えしようとしている内容は、
これ以上ないくらい、シンプル極まりないんですよ。
一言で言いますと、
「すでに治癒という目的地にいるのだから、
決して、どうにかしようと、内面の用事をしてはいけません」
ということです。
このことで、終始首尾一貫しております。
何かを学ぼうとするとき、
もしも、その教えの中に、矛盾があったとしたらどうでしょう?
学習者は、必ず、その矛盾によって苦しみますよね。
教えが首尾一貫していることで、学びはスムーズになります。
三聖さんの文章は一見難解です。
読んでいると混乱してしまい、苦しくなってしまうこともありますので、
敬遠されがちです。
一方、他の指導者の方の文章は、とても分かりやすいです。
なので、どうしても、分かりやすい方に耳を傾けたくなるのですが、
けれども、その意味する内容の中には、
矛盾するメッセージが含まれてしまっていることが多々あるんです。
わたしはどうにかそのことに気づくことが出来たので、
お節介とは思いながらも、
「三聖さんが言っていることは本物だから、
神経症を克服した人も、まだお悩みの方も、謙虚に耳を傾け、
分からないところは、質問しましょうよ」
というようなことを言って、
大変僭越ながら、
三聖さんの言っていることを解説したりしてきたのです。
耳を傾けようとしない方に、
三聖さんは、無駄な骨折りをしようとはしないので、
わたしが何も言わなかったら、
三聖さんの書き込みは、過去ログの中で、
ほとんど誰にも見向きもされなくなってしまうかもしれず、
それは、貴重な宝を逸してしまうことになると思いました。
そして、
正統な宇佐療法は、宇佐先生の死去と共に、
永遠に失われてしまうかもしれないと。
人は学びたいと思ったことや、必要だと思ったことしか、
学ぶことができないんです。
三聖さんが仰っていることが必要ないと思ってしまえば、
そこから有益な学びを得ることは、不可能になってしまうんです。
分からないからといって、
分からないという理由で不必要と断定してしまっても、
本当に良いのでしょうか。
>わたしが何も言わなかったら、三聖さんの書き込みは、過去ログの中で、ほとんど誰にも見向きもされなくなってしまうかもしれず、それは、貴重な宝を逸してしまうことになると思いました。
三聖さんは、いろいろなところで書き込みをされているんですよね?
http://ameblo.jp/rurumik/
http://tadaima76.cocolog-nifty.com/blog/
ここ以外にも。だから大丈夫ですね。
このブログも更新頻度は高くないし。それに本物だったら、誰かがまた拾って、広めてくれるでしょう。
目立つところにリンクでも貼っておきましょうか?
>人は学びたいと思ったことや、必要だと思ったことしか、学ぶことができないんです。
>三聖さんが仰っていることが必要ないと思ってしまえば、そこから有益な学びを得ることは、不可能になってしまうんです。
そうですね。必要だと思う人もいるでしょうから、学びたいと思った人が学べばいいと思います。
>正統な宇佐療法は、宇佐先生の死去と共に、永遠に失われてしまうかもしれないと。
弟子や正統な宇佐療法で治った多くの人がいらっしゃるのでは?それで完全になくなってしまうようでは、「今までいったい何やってきたの?」という話になると思いますが。三聖さんが継げばいいんじゃないですか?
ネットの時代ということもあり、本物ならどんどん広がっていくと思いますが。
そういえば、DVDとかも売ってましたよね?
>分からないからといって、分からないという理由で不必要と断定してしまっても、本当に良いのでしょうか。
それが本当に必要な物であれば、分かる必要があると思います。分かることで神経症が治るのであれば分かる必要があると思います。多くの人が分かることで神経症が治るという結果が出ていれば、それは必要だとすぐ分かりますね。
後は教える側の力量も必要ではないでしょうか?
「自分は治って指導しているけど、それを教わっている人達は一向に治らない。自分だけが治っている。教わっているやつらがおかしい」そういうのを見ると、「本当に教わっている人が全部悪いんですかね?」と思ってしまいますが。
rurumikさん
コメントありがとうございます。
少しでも参考にしていただけたとしたら、
とっても嬉しいです。
さらっとブログを読ませていただきましたが、
昭和の親鸞?藤原正遠さんのお言葉、とても良いですね。
心に染み入ってきます。
またゆっくりとブログ読ませていただきますね。
どうもありがとうございます。
管理人さん
なんだかわたしの執拗な書き込みのせいで、
気分を害させてしまったようで、申し訳ございません。
それは決して、わたしの本意ではありませんので、
これで最後の投稿にしたほうが良いと思いました。
神経症ってほんと不思議な病気かと思います。
今回、管理人さんが立ててくださったスレッドのタイトル通り、
そもそも神経症なんてものは、存在しません。
だからこそ、存在しないものを存在させるためには、
わたしたちの側からエネルギーを与え続けなければいけません。
わたしたちの側からのエネルギー補給がなくなれば、
その途端、神経症は成り立たなくなってしまうんですね。
だからこそ、神経症を継続させることには、多大な努力が必要となり、
逆に、
神経症から解放されるためには、
わたしたちの側からの努力は一切不必要となります。
宇佐先生、三聖さんの教えは、
実体のない神経症に対して、エネルギーを補給することを一切停止する教えになります。
ある意味、兵糧攻めって感じでしょうか(笑)。
このことに関して、お二人は、
神経症に対して、一粒のお米も与えないというくらい、
一切の妥協がありません。
でも、他の指導者の方は、
知らず知らず、腹を空かせた神経症に、
おにぎり一個与えてしまうような表現をされることがあるんですね。
神経症の治癒というのは、
元々存在していない神経症にエネルギーを与えるのをやめることであり、
岩のように実体のあるもの(神経症)を、ノミとトンカチ(手段)を使って、
徐々に減らして行き、最後には消滅させるというようなことではないんですね。
だからこそ、「時間的経過を辿って治癒に至る」という考えは、
治癒の邪魔になってしまいます。
このことが理解できれば、
他の指導者の方の教えもとても役に立つかと思います。
それでは管理人さん、ありがとうございました。
こちらのサイトにご縁があったこと本当に有難く思っております。
合掌(-∧-)
ちょっと訂正します。治りもしてないのに、やたら説教がましい人の事をくさみと言うんじゃなくて、治ってるかどうかにかかわらず
説教がましいその特徴の事をくさみと言うらしいです。
特に禅とか森田療法の医師の言葉をふんだんに使ってね。
まあ好きにやってもらったらいいですわ。
管理人様お久しぶりです。
覚えてますかな?サンタです。
久しぶりに拝見しましたので一言残して去りたいと思います。
「只管打坐」です。
これで全てが救われます。
この言葉の意味は「座る」です。
神経症の方は具体的な答えをお求めでしょうから、更にポイントとして挙げますと続けることですね。一日、まぁ30分で良いですよ。とりあえず三ヶ月欠かすことなく続けてください。座っている時の雑念、なんちゃら、なんちゃらどうぞご勝手に。「30分座ることを一日も欠かすことなく何があっても続けてくれれば」あとは思うがままにどうぞ。
よく、「坐禅は何も期待せずただ座るだけ」といいますが間違いです。さぁ、存分に治ることを期待して座って下さい。治りますんで
※座り方の方法は関連のサイト等をご覧下さい。まぁ1番参考になるのは鎌倉の大仏かな。足組んで座布団敷いて座れば完成。呼吸法とかはしたかったらして下さい。私が治したい人に要求するのは座り続けることだけですから。
あ、質問とかあったら受け付けますのでどうぞー。返答は不定期になるとは思いますが、出来るだけ縁は大切にしたいですからね。
最近、とても面白い本を読みました。
『喜びから人生を生きる~臨死体験が教えてくれたこと』
(アニータ・ムアジャーニ)
この本の著者、アニータさんは、
4年間のガンとの闘病生活を続けた末、
意識不明の重体になり、医者も諦めたのですが、
その際、臨死体験をし、
その体験から得た知恵によって、
数週間で全てのガン細胞が消えてしまったという体験をされた方です。
オカルトぽい、眉唾な話に聞こえるかもしれませんが、
医師による診療記録もきちんと書いてあり、信憑性があります。
この本を読みますと、
三聖さんの仰っている、
・治す手段を求めることが治療の邪魔になること
・日常生活においていかなる心構えも不必要なこと
・全ての湧き上がる感情や思考をそのままにする大切さ
・全てがひとつに繋がっていること
・神経症は本来存在せず、ただ自分の思考が作り出していること
・言葉によって自分を概念という枠に閉じ込めない大切さ、
・自分を責めない大切さ
など、多くのことが学べます。