なまずさんから宇佐先生のビデオの紹介をして頂きました。
http://www.youtube.com/watch?v=AFKlVI-07Us
http://www.youtube.com/watch?v=ypnqR2zeZuY
以下なまずさんからのコメントです。
私が指導を受けた
宇佐先生の紹介ビデオです。
この中で 「しゃべる人は治りません」とありますが
生活に必要な事以外は という意味です。
たとえビデオを観ても
それで分かったという事には絶対になりません。
この東洋の深い知恵に根ざした療法の肝心なところは
言葉、考え、知性では絶対に分からないものです。
日々の行動の中で自ずと分かるようになっています。
考える必要はありません。
神経症には重要な意味があります。
人類が生まれ知能が進化の過程で発達し言葉、知性を獲得した事により、
いまあるような偉大な進歩を遂げその成果を私たちは日々享受している訳ですが、その一方で心の仕組みによりその言葉、知性が様々な苦しみの原因となって、人類の歴史はまた苦悩の歴史でもあるといえると思います。
神経症は病気ではなく心の捉われといわれます。
私たちは意識もせずに、こころに言葉を使うことにより
本来何もないところに観念の幻が出来てしまい
あるときふとそれに気づき大いに苦しむことになってしまう
というのが神経症の正体なのです。
さて私たちのこころや身体は言葉では区別しますが
実際は一つのもので分けることができません。
そして私たちには生来、様々な歪みが起こるとそれを元に戻す働きが備わっています。恒常性とかホメオスタシー、自然治癒力とか呼ばれるものです。
神経症からの離脱はこころに言葉、考え、知性を用いないこと、
こころを表現しないこと(=そのまま)により
こころ(脳)のその働きによって元に戻されるのです。
つまり放ったらかしで勝手に治るのです。
その治る過程には様々な苦しみやこころの動きがあり
その不安や恐れ、疑念に私たちはついつい惑わされてしまいます。
しかしこころにある自分を観る目で常にこころを眺め味わい観察することで
たびたび挫折しても諦めないで進んで行くのみです。
そして忽然と解決が現れ救いが与えられます。
まさに自分以外のものから ’与えられる’ と実感するものです。
それは誰にも生来等しくある働きです。
先に経験したものは、続く人にその事を知らせ保証する事が出来ます。
神経症が治るというのは骨折が治るというのと根本的に意味が違います。
神経症になる前のあなたに戻るのではありません。
実行する人には間違いなくそれが分かります。
こころを放ったらかしにできない、
任せるという気持ちにならない と言われるかもしれません。
しかしいつも言うようにこころがどうであろうと構わないのです。
大切なのは行動です。
こころと行動は別にするというように
こころに放ったらかしにする、任せておくという気持ちがなくても
行動が放ったらかして、任せている時の行動と同じであれば良いのです。
こころが不安や心配で満ち満ちていても、行動はただそれが無いときと同じよ
うに必要な事をしている、というように
失敗しても失敗してもいつもそのようにいる事です。
そのままでいると、ますます不安や恐怖感、
様々な不快な感覚がが増して
どんどんどんどん悪くなって行くように感じる
何か変化も無いしとても良くなるように思えない
と言われるかも知れません
その思えない所を行くのです。
思いと行動は別にする
必ずその先があります。
なお前に質問された事があるので記しますが
行動とは
日々の生活に必要な行動です。
動く事、何か仕事をする事だけではなく
例えば夜、横になっでも、あるいは夜中に目が覚めて
眠れない という時は
眠れないまま横になっている事が
その時の必要な行動です。
先生は瞬間的に今治るしかないとおっしゃいます。
そんな事はあり得ないと思われるでしょう。
しかし神経症の治りとは、
私たちの常識的な病気が治るということではありません。
森田療法でいう’全治’で、それは 治る、治らないを超えたところにあります。
それは仏教の悟りと全く同じもので、それは
言葉、考え、知性では絶対に分からないものですが
こころをそのままにして行動する時、あなたが気が付かないだけで
既に厳然とそれは現れているのです。
辛く苦しいなかでも前進している、それは全治、悟りの姿です。
そして身を持ってその意味が分かる時がやがて突然やってくるのです。
とにかくつらく苦しい生活をじっと耐え忍んで進めることです。
そのようにしている事がなぜ大事であるのか、きっとあなたに分かります。
ただ信じて実行されますように、、、
そのまま前進していると辛さ苦しみがますます募り、
もうだめだ、と思うようになるところまで行き着くと
突然すーーっと念が有りながらにして潰れていき
救われるということを経験するでしょう。
それは体験しなければ分からない事ですが
そういうことが間違いなく誰にも起こるようになっています。
しかしそこへ至るまでにどうしても不安や恐れを感じ、わたしたちはつい自分を守ろうと回避してしまうのです。
それは自己保存の本能的な反応と言えると思います。
しかしこの療法のおかげで、そのままでいること、つまり任せている事で
真の解決、救いが与えられるという事を実行しさえすれば、
かならず未だ経験したことのない世界へ導かれるでしょう。
投稿の最後によく、(わたしのいう事を)信じて実行してください
と書いていることがありますが、
実際のところは、こころはどのようであっても良いので
信じても信じられなくても、言っていることを実行していれば
全く同じ事です。
それこそ
騙されたと思ってやってみてください。
私の役目はこちらに記してある事を実行する方を常に動機付けることです、
特に始めて日が浅い方は期待して始めたがやはりなんの変化もない、無駄だと判断し止めてしまいがちだからです。
あなたがどの様に感じようと続けている限り変化は着実に進んています
辛さ苦しさ不快感から何とか早く逃れたいでしょうけれど
その心はそのままにして、兎に角辛抱強く続けてください
私達のこころはいつも変わらないこと、変化しないもの
、安定した状態、安心を求める性質があります。
しかしこの世の全ては移ろい変化するものです。
何とも心もとない不安定な居心地の悪い不安なこころのままで
いるのが本当の安心の道です。
行動のなかでその事が分かるでしょう。
こころは
それ自身のルール、論理にによって自律的に動いています。
私達はそれを変えることは出来ません。
私達の間違いは、
心の世界を外の世界のもの、事と同じように、
それらに働きかけると私達が望むように変えられる
、あるいは直ぐに変えられずともその道筋が分かる
というように、外の世界と内なる心の世界を同じ扱いが出来ると
区別していないところにあります。
そんなことを意識もしていないことでしょう。
外の世界に対して私達は行動の主体者になる事が出来ますが
心の世界では、主体者になる事が出来ず
従者、従うものという存在でしか居られないのです。
主体的になろうとするとこころの論理、ルールから外れ
必ず私達はその事が原因で大いに困る事になってしまいます。
そこで心の世界では常に従者の心得、つまりそのままでいる事、
が絶対的に必要なことになります。
そのままでいる事は辛く苦しくそれがいつまでも続くと
思ってしまうのですが、しかし今まで行った事がない、
経験したことがないところまで
辛抱すると突然の未経験の解決、救いが
思いもよらないところからやって来ます。
信じてそれを体験してください。
そのままでいると心の世界のことは教えられずとも
自分てわかるようになっています。
内なる心の世界の主体者は
脳、身体からなるわたしたち自身の自律的システム、
私は内なる自然と呼びますが、
神や仏と呼ばれるものと同じです。
こころを放ったらかしでそのままでいる、任せる ということは
答えが与えられるのを じっと待つ ということです。
こころはそうしておいて、行動は実生活に傾注する。
それが自分を任せている姿です。
任せる相手は私たちの内なる自然、、、それは神や仏とも言えます。
そんなことでは解決するようには思えない、
早く答えが欲しい、解決が欲しいと
じたばたしてもそれはその分、遠のくばかりです。
自分の心をなんとかしようと工夫することはまったくの骨折りになります。
今から止めましょう。
そして待ちましょう
一度でも経験するとその正しさが分かります。
坐る事、座禅を継続的にする事をお薦めします
半柱(約20分)の座りに慣れたら
一柱(約40分)座りましょう
神経症者の座禅は、神経症ではない人が行う座禅とは
違う苦しさがあるようです、
しかしその苦しさは起こるべくして起こり
与えられています
ただそのまま苦しみを味わい座り続ける。
それで十分です。
そのままでいると
脳が自然に、正に勝手に、私達の考えや想いとは全く無関係に
それ自身の修復メカニズムによって
私達を整えてくれます
その過程では心はいろいろと変化しましが
それを眺めていると、私という意識は
この心と身体は 自分のものだ と思い込んで
いるが実は何ひとつそれに働きかける事は出来ない、
そして私達はただ従うものとしての存在だというように感じるでしょう。
そしてこの心身の本当の主は、
何も言わずただ黙々と常にこの心身を整える事に専念している
脳の自己保存、事故調整のシステムであると分かるでしょう。
内なる自然、神や仏ともいうべきものが
全ての人に共通に存在していると分かるでしょう。
私達はそれにただ任せて待って居れば良いのです、
上文訂正
事故調整 → 自己調整
つまり
私達の意識は私達自身には何も出来ない
そしてできる事は外へ働きかける事のみ、
即ち、そのまま 前進 です
私がここに書いている事は一部を除き
読んで頭で分かったと理解できるものはありません、
全て、実行する事 と
実行する事で自ずと身体で分かる事ばかりです。
兎に角
第一に、絶対に自分の問題としていることを
口にしない、言葉にしない、日記やブログなど
どんな表現方法やメディアにも表さない
事が重要です。
(実はもうそれで既に解決しているのです。)
後は日々そのまま前進あるのみです。
勝手に解決へ導かれます。
兎に角、実行してください。
今まで言ってきたように
言葉を自分に使うこと、
自分を言葉で表すこと
それが神経症のみならず悩みの発生の原因であり
苦悩を増大し、長引かせ解決を遅らせる根本原因である、
この事をよく心に留め置いてください。
そして日々の生活に必要な事にのみ
言葉、考え、論理、知性を
大いに使ってください
付随する辛さ、苦しさ、悩ましさ、居心地の悪さ、
何とも表現し難い不快感、等々
それら全ては脳の復元力が働いている時の
現象なのだと承知して、
素直に甘受しましょう
これを実行したとき瞬間的に悩みは
解決しています。
苦しみはあり辛いが悩みはないと分かります。
そのまま前進しましょう
いずれ新たな経験をするでしょう
こころは
なるようになって行く
ことがとても大切なことなのです。
こころは与えられるまま
で良いのです
どこまでいってもそのままです
任せることです
しかし
必ずそうしていることへの
不安や、はたしてこうしていて本当に
いいのかという疑いが出て来ますが
そこで止めてはいけません
そのようなこころの声にも左右されずそのままで
居続ける事が重要なポイントです。
必ずあなたの問題の根本原因まで到達し解決してくれます。
あなたは常に従者となってその成り行きを傍観しているだけで
いいのです。
あなたがするのは外の世界の事のみ、
日々の生活にぼちぼち、
色々と知恵をだしながら
創意工夫して進めて行きましょう。
今あなたに起こっている事は
全て起こるべくしと起こっている事です、
必然です。
自然現象とおなじです。
嫌だ、辛い、苦しい、逃がれたいと
いうのは自然に対して文句を言っている事と
同じです。
叶うはずありませんね。
素直に従い、
なるようになっていくのが
正しい対応です。
来るものは拒まず、
素直に迎え、
去るものは追わず
あなたなとってそれが
良い事でも悪い事でも
平等に、素直に
不安が嫌い、安心が好き
不快な事が嫌いで気持ち良い事が好き、
当たり前の事だと思いますが、それに従って行動すると
私たちはどうしようもない困ったこと陥ります。
心ではどのように思っていてもいいですが
行動はそれに従うと片方だけを取って片方を取らないという
比較の世界に入ってしまいそのことでとても苦しむことになるのです。
行動では、どちらも必要に応じて平等に扱うことが大事です。
そのままの世界には比較がありません。
比較が無い世界では
神経症とか神経症でないとか、健康人かとか
そういうことも意味をなさない、成り立ちません。
先生がおっしゃる
そのままで 神経症が瞬間的に治る
とはそのことだと私は考えます。
つまり逆に比較の世界に戻れば瞬間的に神経症も戻ると
言うことです。
しかし今までと違ってそのことが分かれば
心強いと思います。
詭弁のように思われる方もいるかもしれません。
しかし実行すればいづれ身をもってそのことが真実であると
ほんとうに分かる時が来るでしょう。
行動で心が変わる、行動に心はついてきます。
頭で分かったつもりでも
それはちっとも実際の役に立ちません。
行動しましょう。
神経症者がそのままでいる事は辛さ苦しさが伴います。
しかしそれは内なる自然から必然的に与えられる辛さ苦しさです。
それにはどのような意味があるのでしょうか、、、
辛さ苦しさを真正面に受け止め甘受するとき
あなたは この今、この瞬間 に生きているのです。
その行動は正に今生きている真実の行動です。
そして心はその行動についてきます。
そのままでいることで
過ぎ去った過去への悔悟やまだ来ぬ未来への不安や恐れという
この世に存在しない幻の観念の苦しみ・・・報われることのない
偽物の世界の苦しみから
今この時に生きている真実のあなたの、
本物の魂の苦しみに変わるのです。
そして真実の行動には真実のこころが反映されます。
苦しみが晴れる時、こころは今までと違った景色になるでしょう。
気が熟せば間違いなくやってきます。
常識的で論理的な、聞いて頭で理解できるような分かりやすい話を
皆さん期待されると思います。
しかしこと心の問題についてはそうは絶対にいかないのです。
もっともらしい常識的な話は、こころの問題については真実ではありません。
常識は心には通用しません。
心、考え、想いが私たちの主体、中心だと考えてしまいますが
実際は心、意識、想い、考えは従属的なものです。
先に心身の活動がありそこから心、意識、想い、考えが生まれます。
私たちのこころ、意識が私たちの中心、階層の最上段にあってそれらが
私たちの全てを支配していると考えたくなるのですが
実際はそうではありません。
意識、考えで心がコントロールできない理由はそこにあります。
いつも言いますが、意識や考えとは全く関係ないところで
脳が物理、生化学的に調整され
それが私たちの意識、考え、こころに反映されます。
神経症の苦しみは、
心に沸き起こる思考や感情を、掴み取り、
「自分のもの」と思うことで生じます。
実際は、
思考や感情は、自分の肉体を超越したところから発しているので、
自分のものではありません。
心に沸き起こる思考や感情を自分のものと錯覚し、
それと一体になることで、苦しむのです。
そのために、
思考や感情と自分を切り離す必要があります。
想念や、辛さ、苦しさを言葉で表現せず、
ただ眺め、観察するということも、
それらと、一体にならず、自分と切り離すためのひとつの方法です。
ただ、
この方法ですと、
最初のうちは、辛さのあまり、
どうしても、思考や感情と一体になってしまう傾向が強いようです。
なので、
矛盾するようですが、
言葉を正しく使用する方法が良いかもしれません。
例えば、
心に苦しさが沸き上がったとき、
「苦しい」と言うことは、
自分と苦しさを一体化させることになりますが、
「自分は今苦しみを感じている」
そう表現することは、
苦しみを客観的に観察することになり、
苦しみと自分を一体化させることを防ぎ、切り離すことができます。
怒りが生じたときも、
「あいつめ。絶対に許さない」
そう言う代わりに、
「わたしは今、怒りを感じている」
そう言うようにします。
自分の心に生じる不快な感情に敏感になり、
気づいて、正しく言葉で表現することを毎日訓練することで、
次第に、
言葉を用いなくても、
思考や感情と一体化することなく、ただ眺め、観察し、そのまま流すことができるようになってきます。
こうして、
自分と思考や感情との間に、隙間を作るようにするのです。
隙間を作ることで、
その隙間に、
自分を超えた、大いなる存在の力が入りこんできます。
隙間を作ることは、
自分の側の努力が必要ですが、
大いなる存在の力は自動的に入りこんできます。
必要なことは、隙間を作ることだけです。
あとは、大いなる存在の力に身を委ねましょう。
神経症の解決は、
どんなに苦しくとも目前の作業に手を出す生活をしていれば、
いずれ、大いなる存在から、救済の手が伸びて来て、救われる、
そう思われがちですが、
実際は、大いなる存在の救済は、
すでに、今ここにおいて、行われております。
それは不変かつ永遠で、決して失われることはありません。
失われることはありませんが、
大いなる存在の救済の手を振り払うことはできます。
それは、
思考や感情と自分自身を同一視することで起こります。
人は、毎分、毎秒、一瞬、一瞬、
2つの選択を繰り返しています。
思考や感情を自分と思い込むか、
それとも、
大いなる存在と繋がるかです。
心に沸き上がる思考や感情をただ眺め、観察し、
それらと一体化していないとき、
大いなる存在と繋がっています。
これが神経症の治癒であり、
神経症の治癒は一瞬と言われる所以です。
「神経症の治癒は一瞬」
このことを何度も何度も体験し、
心の底から納得できるようにならなければ、
神経症の解決は難しくなるでしょう。
いろいろと人によりその心的体験は異なるでしょうから
違った見解があるのは当然な事だと承知します。
いつも私が言っていますが
心の問題については教えられずとも
誰にも答えが与えられます。
その過程に入る事が大事です。
それが自分を無表現でいる事です。
それさえ守れば後は脳の自立的働きによって
勝手に進み整えられます、
その過程で色々と分かってきます。
つまり絶対に考えによる方法で治るのではありません
考え、想いは全て与えられる従属的なもので
主体的ではない、主体的と想うのは
脳の仕組みでそのように思わされるように
なっていていわば幻です。
脳の調整が進んでいけば四の五の言っている
余裕などないところへ追い込まれます。
こころの有り様など問題ではなくなります。
結果的に誰にもこころの真実が分かる、
与えられます。
目の前の現実生活の行動が大事です
こころは与えられるまま、放ったらかしで
いいです。
わたしとなまずさんが仰っていることには、
違いがあると解釈されてしまう方がいらっしゃるかもしれませんが、
注意深くお読みいただければ、
言葉の表現(入れ物)に違いがあっても、
その言葉の意味するメッセージ(中身)は一緒だとご理解いただけるのではないかと思います。
例えば、
「自分を無表現」ということと、
自分の心に湧いた苦しみを、
「わたしは今苦しみを感じている」
そう表現することは、
一見、矛盾するように感じるかもしれません。
しかし、
この二つが意味するメッセージは、
思考や感情を自分のものとしない、自分の所有物にしない、
思考や感情を自分自身とみなさない、
そういう点で、同じなのです。
思考や感情は、
なまずさんが仰っているように、
幻であり、実在するものではありません。
それがどうして実在するように思えるかと言いますと、
わたしたちには、非実在を自分のものと思うことで、
実在に変える力があるからです。
非実在である思考や感情に、わたしたちが力を与えなければ、
つまりほったらかしにしておけば、
それは必ず、元いる場所、無に帰り、消滅するのです。
非実在を実在にしない、
他の表現は、
「沸き上がる思考や感情に抵抗せず、ただ受け入れる」
「沸き上がる思考や感情に良し悪しをつけない」
ということを良くお聞きになるかと思います。
思考や感情に良し悪しをつけるということは、
思考や感情を価値判断することになり、
非実在を実在させてしまうことになります。
また、
森田療法家の方々は、
目の前の現実生活の行動を強調されることが多いですが、
行動それ自体に、神経症を解決する力はありません。
このことを誤解されてしまう方が非常に多いです。
思考や感情と自分を切り離すための手段として行動があるのであり、
行動は目的ではありません。
行動を目的とすることで、神経症の方は行動することが苦しくなります。
行動を目的とすることは、思考や感情に沿った行動になりやすいからです。
行動を強調するよりも、
「周囲の環境にただ流されてください」
そういう表現のほうが、誤解は少ないと思います。
例えば、
部屋を掃除するときに、
「部屋を掃除するぞ」と自分で自分に命令するのではなく、
ほこりが積もっているという事実に反応し、掃除をするのです。
部屋が散らかっているという周囲の環境に受動的に反応し、
その事実にただ流されて、手を出せば良いのです。
周囲の環境にただ流されることで、
朝起きて歯を磨くことも、掃除・洗濯することも、
仕事をこなすことも、友人と話をすることも、
そこに価値の序列はないことに気がつくでしょう。
どの行動が、どの行動よりも重要というのはありません。
周囲の環境にただ流されているだけです。
周囲の環境にただ流されているとき、
神経症の外側にいます。
これが、神経症の治りは一瞬と言われる所以です。
宇佐先生の講話です。
http://sanseikouwa.blog.shinobi.jp/Category/5/
shinobさん情報ありがとうございました。
はじめまして。十年くらい前からたまにサイト訪問していました。初めてコメントします。
なまずさんの文章に惹かれたびたび訪れていました。また仏教や禅や自分の本質に関心があり森田療法等にも関心がありました。ブログ立ち上げ感謝いたします。
ところで、なまずさんの文章は他にあったと思いますが現在は停止されているのでしょうか?気になったのでコメントいたしました。
コメントありがとうございます。また、長い間サイトのご訪問ありがとうございます。
ブログ記事とそれに付随するコメントについてですが、「言葉をたくさん並べたところで、混乱を招き、読者にプラスにならない」と判断した為、削除しました。
ですが、今回コメント頂き、なまずさんのコメントを望んでいる方もいらっしゃるようですので、徐々に戻していこうかと思っています。
返信ありがとうございました。言葉を並べてもプラスにならない、確かにそれは痛感致しますね。今直に触れている事実に参ずることや、目の前の行動が大事がですね。理解することではない。という所がポイントでしょうか。
判断はお任せ致します。共に励んでいきましょう。
管理人様
突然のコメント 失礼いたします。
私は、神経症になり 森田療法、宇佐療法の本を読んできまして、色々と気になりながら毎日を過ごしております。
こちらの「神経症日記」に書かれてあります内容は とてもわかりやすいものだと思いました。
壁にぶつかった時に、読ませていただいておりますが 頭で理解していても 中々思うようにいかないのが
現実です。
今日は、ちょっと気になる事が強めの1日でしたので、これからじっくり読ませていただきます。
貴重な日記に感謝いたします。
コメントありがとうございます。
また「分かりやすい」と評価頂きありがとうございます。
現在はほとんどの記事を非表示にしており、申し訳ありません。
年末年始でまた記事を整理してアップしていく予定です。
少しでも神経症から解放されるヒントになればうれしいです。