もとはまさん、コメントありがとうございました。
苦しみと森田療法についてのご意見は、他の神経症の方にも大変参考になると思います。
苦しすぎて、途中でまた元の道に戻るという事がないように気をつけたいと思います。
それと追加ですが、
苦しみについて「苦しくてもそのまま進む」という方法と、「苦しみを持ち運んだまま、何かをしようとはしない、言葉をうまく使う」という方法が同じブログに存在するのは、読んでいる方に混乱をもたらすのでは?と思いましたので、その辺りのフォローもお願いできればと思います。
個人的には、苦しみに耐えて日常生活を送っていたら、最近はだいぶ落ち着いたので、あえて言葉をうまく使おうとは思っていません。もとはまさんもおっしゃっているように、「最初は辛すぎて」とありますので、そのような時に大変有効なのかと思いました。
苦しいときは、
思考や感情を自分自身と同一視しているという、
確かな証拠です。
また自分自身の力を頼りにしている証拠です。
そして、
「すでにそうであるもの」に抵抗し、
周囲の環境にただ流されていないという証拠です。
苦しみを持ち運んだまま、
何かをしようとはしないでください。
ただ流されてください。
通り過ぎる存在であってください。
苦しみは実在するものではありません。
なぜなら、
目に見えているこの世界が、
実在するものではないからです。
この世界は幻想であり、ホログラムだからです。
信じられないかもしれませんが、
これは真実です。
良かったら、こちらの動画を参照ください。
この世界、
地球だけでなく、
時空の宇宙は、
その外側の世界から投影されたホログラムです。
わたしは、
この外側の世界は、
5次元世界なのではないかと思ってます。
(5次元よりもさらに外側の世界があるのかもしれませんが)
このことは、
良かったら、こちらの動画をご参照ください。
また、
この目に見える世界は、夢であり、ホログラムだということを、
感覚的に理解するために、
良かったら、『インセプション』という映画をご覧ください。
また、
これは大切なことなのですが、
神経症の解決と禅の悟りはイコールではないということです。
悟りとは、
この夢の世界から目覚めることであり、
神経症の解決は、
辛く苦しい夢が、楽な夢に変わることで、
夢の中にいることに変わりはありません。
また、
心は脳の働きによって生じると思われていますが、
実際は逆で、
心の働きによって、脳が生じています。
心がこの夢の世界を投影しており、
この世界が幻想であるならば、
肉体も幻想であり、脳も幻想です。
神経症を克服された方の多くが、
脳にこだわっていることが、悟りを得ていない証拠です。
1600年代に生きた、
至道無難禅師が詠んだ歌です。
「本来の悟りのしるしあらわれて、身さえ残らず消えはてにけり」
「いきながら死人となりてなりはてて、おもひのままにするわざぞよき」
「苦しくてもそのまま進む」という方法は、
「苦しい、苦しいと思いながらでも、
目前の作業に手を出す」ということですよね。
「苦しい、苦しいと思いながらでも」ということは、
苦しみと自分自身を同一視、
非実在である苦しみを実在にしていることになります。
苦しみを実在させて行動することは、
大変な苦痛を伴います。
このような状態で行動しても、
結果がどのようなものになるかは、
神経症でお悩みの方であれば、
嫌というほどに経験していることでしょう。
そのために、非常な自己嫌悪に陥ってしまい、
さらに苦しい、自分を責め立てる思考の堂々巡りが生じ、
身動きが取れなくてなってしまいます。
中には、家から一歩も出られなくなる方もいることでしょう。
なので、
心に苦しみが沸いてきて、
その苦しみと自分とを同一化させてしまったときは、
無理に動こうとせず、
できるだけ早く、苦しみは実在しないことを思い出し、
その苦しみと自分を切り離すことが必要です。
脳の自己修正の過程で苦しみが生じるというのは、
苦しみを実在するものと考えていることで、それは誤りです。
繰り返し行動についてですが、
どんな行動にも意味を付け加えないようにしてください。
目的のある行動を取らないようにしてください。
ただするだけです。
これが、只管打坐であり、
「いきながら死人となりてなりはてて、おもひのままにするわざぞよき」
ということです。
行動それ自体には意味はありません。
周囲の状況、環境にアクション(行動)を取るのではなく、リアクション(反応)をするだけです。
あえて見解の違いと言わずにおりましたが
目に余るので一言申します。
現実の行動を離れて悟りはありません。
今、ここ、自己以外に何も持ち出す必要はありません。
神経症の治りと悟りはまったく同じです。
瞬間的に治るという意味もあなたは全く分かっていない。
それら全てが違うというあなたは、実際のところ全くなにも
分かっておらず 大ウソつきというしかない。
自分の観念の世界でどう遊ぼうと勝手であるが
悩む人をさらに観念の世界に引きずり込むのは大罪です。
悟りは言葉では表せないがあえて聞きます。
あなたはどう悟ったというのか示してみなさい
私は言っています。
ここで言っている事は
行動する事と
行動した結果、分かることのみ
後者は結局誰に教えられずともおのずと分かることであるので
大事ではない、
大事なのは悩む人が行動する事、実行する事、
あなたは後者の事ばかり、つまりどうでも良い事ばかりである
どう行動せよというのか、観念的な事ではなく
それを言わなければなりません。
世界のホログラム説は物理学の一つの仮説ですね。
それは現在科学的手法で検証出来ず、仮説というのはあくまでもそういう
事もあるかもしれないという程度のものです。
CERNの加速器で多次元へのエネルギーの消失が確認できるかもしれないと
いう話はありますがそれとて仮説に過ぎず検証できるのは
まだまだ先の未来の事です。
そのホログラム論の世界が実在すると 断定 し
それをこちらでの話の根拠にしているのは
あなたはそれを決して受け売りではなく自身で科学的に解明されたのですか?
それともその世界を見た、体験したとでもいうのでしょうか。?
そのどちらにしても、驚くべきことですが、、、
只管打座も、その只管の意味が分かっていないですね。
只々目的無くすわるというのは
心の真理を得るための行動であるからです。
心は外の世界と同じように意志でコントロールできないものであるからです。
それは受動的な状態でのみ、与えられるということを言っています。
それと客観的世界での行動とを区別できていない。
外の行動に目的をも持たなければ、系統だった仕事は
出来ないではありませんか。
日々の仕事には手順があり段取りが必要です。そのような事に目的が
無かったら日常生活はなにも出来ません。
ただ本能のままに暮らす事しかできません。
こころにたいしては徹底的に受動的でいること、
外への行動、つまり私たちの日々の生活の行動は
明確に目的を持って
様々、創意工夫して進めていく
これが正しい取り組み方です。
これが違うというのは
とんでもない事です
逆に質問させてください。
神経症の治りと悟りが同じものとしたら、
お釈迦様の体験が、
これほどまでに評価されると思いますか?
科学的に証明されたからといって、
それは真実とは限らず、
科学的に証明されていないからといって、
それは真実とは限らないとは言えないのでしょうか。
盛んに禅者の言葉を引用していますが
あなたはその境涯に達しているのですか?
それでいっている事は大悟徹底し更に修行を積んだ偉い禅者の境涯で
この世に遊ぶというようなこころで、
我々にはなかなかそこまでいけません。
そのような境涯は道を求め修行半ばの人に求められる
こころの状態ではありません、
それを求めて修行をしているのですから
あなたはどうやらそれを
行動に目的を持たないと言う事の根拠と
しているようであるが
上で言ったように論理的に矛盾しています。
ところであなたはそのような境涯に
あるのでしょうか?
そうであるなら、また、驚くべき事ですが、
>科学的に証明されたからといって、
>それは真実とは限らず、
>科学的に証明されていないからといって、
>それは真実とは限らないとは言えないのでしょうか。
あなたが持ち出したはなしです。
それは科学ではないのですか?
科学的話を根拠に持ち出しておいて
都合がわるくなりと
科学的手法を否定するのですか?
それにあなたとその事との関わりを質問しましたが
それについてお答えください
ここへ根拠に持ち出したホログラム世界は
あなたはどう解明しましたか、あるいは体験したのですか?
その5次元とやらを
あなたが断定した事ですよね
>逆に質問させてください。
>神経症の治りと悟りが同じものとしたら、
>お釈迦様の体験が、
>これほどまでに評価されると思いますか?
釈迦は偉い人ですが、おなじ人間です、
おなじ人間として苦しみの根源を見抜き、それからの救いを説いたのです
それが釈迦と言う特殊な人だけに通用することなら
なにも評価されません
私達に共通する問題、こころの問題の解決法を示したのです。
こころに言葉、観念を持ち込む事が苦しみの源であり
それからの救いを示したのです。
神経症は正にその問題を意図せず抱えてしまったと言う事になります。
その解決は悟りと全くおなじで、違うはずない事です。
悟りについては言葉では絶対に表せないものですが
つまり悟りを言葉で表した途端、観念となるからです。
しかしおなじ悟りを得た人なら観念としても
どのよいに分かっているのかが分かります。
あなたの悟りをここに示してください。
趙州無字 の公案
のあなたの答えを受け売りではなく
あなたの表現でここに示してください
なまずさんは、
内側と外側、主体と客体、
知覚する肉体(脳)と、知覚される対象、
というように、
世界を2分されたものと理解、体験されています。
この2分された世界という理解、体験でも、
神経症の克服は可能です。
ただ、禅の悟りは違います。
良かったらこちらをご参照ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/karupapa21sei/65236719.html
わたしが行動には意味がないと言ったのは、
それが実際事実であるからという理由もありますが、
神経症で身動きが取れなくなった方が、
少しでも楽に動けるようになって欲しいという理由からです。
神経症でお悩みの方は、
意味の無い世界に自分勝手に意味づけしてしまったことで、
自分を束縛し、制限をかけてしまっているのです。
もちろん、
世界に意味づけをしているのは、
神経症の方だけでなく、健常者の方も一緒です。
ただ、神経症の方は、それをやりすぎてしまったということです。
「人よりも良い会社に入り、お金をたくさん稼ぐことが幸せ」
「人に対して気の利いたことが言えて、人に好かれるのが幸せ」
「人に尊敬されることで、自分に満足することができる」などなどです。
そのために、
日常の行動にも、価値の序列をつけてしまいます。
部屋を掃除するよりも、勉強することが大切などです。
自分勝手な恣意的な価値判断によって、
自分を束縛、制限して、
行動することが苦しくなってしまうのです。
誤解を招く表現だったかもしれませんが、
行動してはいけない、何もしなくても良いと言っているわけではありません。
神経症治療でよく言われることに、
神経症から楽になる目的、神経症を治す目的で行動してはいけない、
ということがあります。
これは、行動に、『神経症を治す』という目的をつけることで、
目的が達成されないとき、
この場合では、神経症が良くならないとき、
挫折感が募り、行動することが苦しくなり、治癒から遠ざかるということです。
行動に目的をつけることで、
良くなった、悪くなったと価値判断をしてしまうのです。
悟りとは、
「ただ在る」ということであり、
この理解も捨てて、「ただ在る」ということです。
神経症が、理解・考えでは解決されないということは事実です。
しかし、理解・考えが助けになるということも事実です。
このサイトは悩みを抱えた人が道を求めている所です。
その人達に解決した人のこころのあり様
を話しその行動を示しても訳がわからないではありませんか
こころを無表現にする
これで既に一つになっています。
言葉は客観的世界を論理的に理解するための
道具ですね。
その道具を正しく使わないと本来の機能を果たせません
こころの世界を記述する道具ではない。
使うと離散的な性質をもつ言葉によって
切り裂かれ有りもしない観念となり脅かされます。
言葉は世界を分割、定義する、飛び飛びの
離散的なものですが私達の複雑な世界に働きかけ
理解し、更に理解を深めるためには
言葉、論理無くして成り立ちません
しかし瞬間的に全てが完全に
成り立つこころの世界は例え一瞬の事でも
いくら限りない言葉を使おうと記述できない。
さらにこころはどんどん変化する
言葉はこころに無用です。
悩める人にこの事を教えなければ
いつまでも迷いの世界に彷徨うばかりです。
それを実行するための道を示しているのです
禅の専門道場でも日々の生活について細かに
決まりが有りトイレでの作法もあるようですが
それとおなじ事を言っています。
進めていけば日々の生活において
なり切ることができるようになります。
行動により、私を意識しない生活に導かれます。
そういう元で解決が与えられるのです。
悟りは対面しないと分からないが
そんなありきたりの観念的な事は答えにならない。
言葉しかないこちらでは、はなから無理であろうが
そこを工夫すればどうなりますか。
趙州無字にはどう答えますか。
あなたの根拠している5次元の世界とはどんなですか?
リンクの継ぎ接ぎではなく
あなた自身の言葉で
まず最初にお断りしておきますが、
森田療法で神経症を治した方を治すのは難しいということです。
なぜなら、
神経症の治癒=悟りと思い込んでおり、
頑なにそれを手放そうとしないからです。
それはそれとして置いていただき、
「諸法無我」=「人を含め森羅万象一切に実体がない」
この理解の元に、
先入観無く、わたしの言葉を聞いていただけますでしょうか。
SFの話のように聞こえるかと思います。
そのように聞いていただいても構いませんですし、
そのほうが理解しやすいかもしれません。
この世界は幻想であり、夢です。
このことを実証したことで、お釈迦様は仏陀。目覚めたもの。夢から覚めたものと呼ばれました。
しかし、人間誰しもが、この世界は現実であると信じて疑いません。
無難禅師の歌です。
「おのが身にばかさるるをば知らずして、きつねたぬきをおそれぬるかな」
この言葉を心に留めて、
次の動画を見てもらえますか?
無難禅師はまた次のような歌も詠んでいます。
「色このむ心にかえて思えただ、見る物は誰ぞ聞く物は誰ぞ」
禅は、五感で捉えられるこの世界の奥の世界を感じ、それとひとつになることです。
森羅万象すべてとひとつに解け合うことで『私』がなくなりますので、
五感で捉えられるこの世界を現実と思っている間、
つまり『私』がある間は、禅にならないのです。
http://life-artist.cocolog-nifty.com/small_surprise/2012/06/post-a3f3.html
>こころを無表現にする
>これで既に一つになっています。
これは仰るとおりです。
こころを無表現にしていても、
この世界を知覚していることで、
次から次へと、思考や感情が心に湧き上がってくる。
しかし、この世界が実在しないのなら、
この世界を知覚することで生じる思考や感情も実在しません。
なので、それら非実在である思考や感情を言葉で表現せず、
実在させなければ、
それらの思考や感情は、本来、元いる場所、非実在の場所に戻り、消失します。
このことを、
白隠禅師は、「心はそもそも無相」と言っています。
そしてまた、「そもそも、罪など何処にもない」と言っています。
罪とは思考や感情と理解してください。
そして、「そもそも」という言葉に注目してください。
「そもそも何処にもない」とは、最初から存在なぞしていないということです。
このようになまずさんが理解されているのなら、
なまずさんは、悟りというものをきちんと理解しており、
そうであれば、
わたしが言っていることも理解されるかと思います。
5次元世界に関しては、
この世界が実在しないということをイメージしやすくするために、
動画を紹介させていただきました。
また、宇佐先生が、
神経症の治癒=悟りと言った場合は正しいですが、
それ以外の神経症を克服された方の場合は、間違っていることが多いので、
神経症の治癒と悟りは違うと言わせていただきました。
そして、この非実在の世界で使われる言葉も、非実在です。
非実在である言葉が、実在を正しく表現できないのはそのためです。
また、知覚や認識、意識もまた、非実在です。
非実在が消えれば、自ずから、実在の世界は姿を現します。
趙州無字というのは初めて聞きましたが、
「犬」にも仏性があるかということですか。
この五感で捉えられる世界、非実在の世界では、
犬、人間に限らず、すべての動植物にそれぞれ固有の仏性が働いているかと思いますが、
この世界を投影している、時間も空間もない、永遠・不変の実在のレベルでは、
すべてがひとつなので、それぞれ固有の仏性というものはなくなるのではないかと・・・。
ただ、犬が悟れるかどうかというと、それは無理なのではないかと・・・
今度はわたしからなまずさんにご質問なのですが、
「仏に会って仏を殺せ」とは、どういう意味だと思いますか?
あと、なまずさんは、
わたしが行動は無意味と言っていることで、
「行動には意味がないから、神経症の治癒において、行動なんてしても仕方が無いよ」
そう解釈されているのかもしれません。
わたしが言っているのは、
周囲の環境・状況にただ流されることで、
それぞれの行動の価値には序列がなくなり、
そのために行動自体に意味がなくなるという意味です。
なまずさんも、
心の状態はどうあれ、
目前の必要なことに対して行動を取るということは、
そのことを意味しているということを仰っているのかもしれませんが、
神経症にお悩みの方は、
行動の大切さを強調されることで、
行動に意味づけをした強迫的な行動になりやすいのではないか、
そう思うのです。
たとえば、
ゴルフで優勝がかかったパットを打つとします。
普段だったら、なんでもないパットなのに、
「これを入れたら優勝だ」という意味づけをすることで、
緊張から体がこわばり、外してしまうということはよくあることかと思います。
また、
劣等感を克服するために、自分の価値を高めようと、
資格の勉強をするとします。
この場合は、自分の価値を高めるという意味づけが心に染み付いているので、
目の前に開いている参考書のページに身が入らず、
なかなかはかどらないということもよくあるかと思います。
この場合、意味づけをしてしまっていることに早く気が付けば、
目の前に開かれているページに受動的に意識が向き、
集中しやすくなるのではないかと思うのです。
意味づけは無意識に行われることが多いので、
なかなか本人は気が付きづらいのです。
神経症はすべての行動に意味づけをやめることで、
完治します。
行動に意味づけをすることで、
日々行う沢山の行動に価値の序列が起こり、
そこに葛藤が生じます。
人生に意味がなければ、行動に意味はありません。
「いきながら死人(しびと)となりてなりはてて、おもひのままにするわざぞよき」
「人生に意味はない」
「行動には意味はない」
そういうことを言われますと、
最初は必ず、
「じゃあ、好き勝手に生きても良いんだ。
人に迷惑かけても大丈夫なんだ」
そういうことを思います。
でも、もちろん、違います。
周囲の環境・状況にただ流されている行動は、
「私」がない行動ということです。
完全にこの状態になっているときには、
五感で捉えた非実在であるこの世界を超えた、
永遠・不変の大いなる存在の意識に繋がることになります。
大いなる存在の意識は、愛そのものなので、
この意識に繋がっているときには、
他人を批判したり、攻撃したくなったりすることは、
絶対に不可能なのです。
少しでも大いなる存在の愛に繋がっただけでも、
自分の心の中から、批判的な気持ちが薄らぐことに、
すぐにお気づきになるでしょう。
実在するのは、大いなる存在の愛だけです。
他人を批判したがる心の中の罪は、
実在するものではありません。
そのために、
白隠禅師は、
「一回の座禅(大いなる存在の意識と繋がる)だけでも、
心の中から罪はなくなる」と言いました。
なので、
心の中に嫌な気持ちが沸き起こってきたとき、
その気持ちと自分自身を同一視し、
自己嫌悪に陥らないように気をつけてください。
自分を責め立てる気持ち、
他人を責め立てる気持ち、
実際には、そんなものは存在しないのです。
過去に自分が犯してしまったと思っている罪も、
同様に、存在しません。
行動することが億劫になったり、面倒くさく感じたりするのは、
なぜでしょうか。
それは、
行動に価値の序列を付けている証拠です。
「インターネットをしているほうが、トイレを掃除するよりも楽しいから、
価値がある」などです。
インターネットをすることも、トイレを掃除することも、同価値だということに気が付けば、
スムーズに動けるようになります。
これを、
「億劫でも、面倒くさくても、生活に必要なことであれば、
その気持を抱えたまま、手を出していくようにしなさい」と言っていたら、
なかなか動けるようになるものではありません。
森田療法とわたしが言っていることの違いが、
お分かりになるでしょうか。
森田療法では、
罪悪感・恐怖などの負の感情を実在するものと考えております。
わたしは、
罪悪感・恐怖は実在するものではないと言っています。
これが決定的な違いです。
このことを理解されるだけでも、
神経症の苦しみは随分と軽減されるものになります。
何故かと申しますと、
心に罪悪感・恐怖の感情が生じたとき、
森田療法的には、
「感情はその状況によって流転するものであるから、
そのまま眺め観察していれば、必ず変化する」となります。
この理解ですと、
負の感情は必ずまた元に戻ってくることが前提になっています。
そのために、予期不安に怯え、苦しむことになり、
負の感情を心に常在させてしまうことになります。
わたしは、
負の感情は存在しないことを前提にしていますので、
心に罪悪感・恐怖の感情が生じたとき、
「このような感情は実在するものではないから、
そのまま眺め観察していれば、必ず、元いる場所、非実在の場所に戻り、消滅する」となります。
そのために、予期不安に囚われることが無くなります。
もちろん、すぐ簡単にできるようになるとは言いませんが、
このことを体験することで理解を深め、
理解が深まることで体験も深まっていく、
というふうに、何度も何度もこのことを繰り返すうちに、
負の感情は存在しないという確信が強まってきます。
また、
理解と体験は車の両輪のようなもので、
両方大切なので、理解をおろそかにしないよう注意してください。
行動に価値の序列をつけず、
周囲の環境・状況にただ流されている生活をされておりますでしょうか。
自分自身の価値判断ほど当てにならないものはありません。
価値判断を手放すだけで、人生は楽になります。
人を不幸せにするだけの価値判断を、
人は重視するだなんて、なんて奇妙なことでしょう。
真理はじつに単純です。
至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)
=「道に至るのは難しいことでは無い。ただ揀擇(けんじゃく。好き嫌い)を嫌うのみ」
ちなみに、
どうして、無為療法の斉藤さんが良くなったかと申しますと、
神経症者に特有の、
「人生はこうでなければ幸せになれない」という過剰な価値判断を手放し、
目の前に広がる雑用に、時の変化と共に、ただ流されていったからです。
しかし、それで良くなったために、
雑用に一番価値を与えてしまい、
結果として、行動に価値の序列をつけてしまったので、
なかなか、他の方は良くならないですし、
ご本人は、しばしばフラッシュバックに悩まされるのです。
神経症のひとへ、
なまず さんは、たいへん良いことを書いています。
しかし、残念ですが、以下は大間違い。指摘させていただきます。
>なまず より: 2012年6月4日 10:33 PM
>こころは内なる自然て外の自然と同様に眺め味わうだけで良いと言ってきました。
>別の言い方で言えば心を観察すること、自己観察、self observationが大事てす。
宇佐先生の療法では、これは大間違いです。これが最大の妨げです。
観察するは、目の前(=外)です。
それを前進(=そのまま)と表現したんです。
宇佐先生の言う、味わうとは、味わいひとつにあることです。
観察される自分と観察する自分と二つに分かれることでないです。
>無為療法の斉藤さん~なかなか、他の方は良くならないですし、ご本人は、しばしばフラッシュバックに悩まされるのです。
治らないとしたら、行動する「自分」を目的にするから治らない。
行動できたかできなかったかの自分がテーマで、自分で自分を評価し治ったか治らないかの自分をテーマにしているから治らない。
行動の具体的中身そっちのけです。
目的は自分以外のもの事。
日常生活の食べたり、仕事勉強、寝たりです。
この無為療法では、神経症と健康世界の比較をしたり、治癒像をこうだと概念化しますが、そういうこと(自分テーマ)しないことです。
「フラッシュバックに悩まされる」のは、
出てきたものに良し悪しをつけて、心を評価するからです。
好き嫌いが出てもかまわないそれに良し悪しをつけないです。
「良し悪しをつけない」心の作業をしろというのでないです。
ほったらかしに、自分の方を見ないということです。
>至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)
=「道に至るのは難しいことでは無い。ただ揀擇(けんじゃく。好き嫌い)を嫌うのみ」
至道無難とは、これから修行(治療)の過程を経て道(全治)にたどり着くのではなく、もうとっくに、道の真っただ中(目的地にある)ということです。
真っただ中にあるのに、自分評価表で、自分をО・☓評価するから、自分で問題を作り自分で悩むことをしているわけです。
実際にはОも☓もついてないことは洞然として明白だのに、Оも☓もついてたらついたまま、道の真っただ中です、前向いていってくださいということです。
好き嫌いをしてはいけないと自分の心を自分でどうこうしようとすることをいっているのでないです。
ほったらかしです。手をつけようがないことを無難(難・易がつかないそのまま)と言ったわけです。
目につくようにこちらにも載せさせていただきます。
>なまずさんのコメントにあった「意識を外へ向ける」についてですが、これは「そのまま前進」を続けていれば、そのうち自然と意識が外へ向かうと思っていたのですが、そうではないのでしょうか?
それで正解です。前進=用事足す=おのずと心そのまま
>意識を向けないとダメなのでしょうか?
意識を決めた向けないとダメなことはないです。
むしろ決めないが正解。
前進=目の前の用事足す=おのずと心そのまま=(なまずさんの言葉で言うと)「まかせて」ある。だからどんな心も満点=(宇佐先生の言葉で言うと)「心の用事」なし
>急に「意識を外へ向ける」というキーワードが出てきたので、混乱しております。
以前にも、斎藤さんのホームページで「何もしない療法」だったのが、急に「動け」になった時の思いと重なりました。
「何もしない」というのは、自分が自分に何もしないこと。
生活上の用はしなくてもいいが、しないわけにいかないです。
>「そのまま前進」の次のステップという事でしょうか?
治す必要のある自分を治しているプロセスで、こういうことをした、一段よくなった、次にこうして、最後に治った自分というのは(身体の病気など)客観的な病気の治癒では言えること。
神経症は主観的な虚構(本人が病気と思い詰めた)で、そういう過程ごと虚構です。
虚構が浮かんでそれを認めなかったら、神経症が成り立たない。
用事してたら、おのずと、成り立たない。
それだけのことです。
しかし、本人は用事に懸命の時は、「自分は神経症だ」という言葉で自分を決めることができない(=これが治りの実際、しかし、本人にはこの時、その実感はない)
>以前にも「目の前の事に意識を向ける」というのを何度もやっていて、おかしくなってやめるというのを繰り返していて、いい思い出はないです。
自分の心を、自分がコントロールしようとするからです。
(宇佐先生の言葉で言うと)「自分対自分の努力」で神経症が成り立ちます。
用事は、「これが自分だ」以外の、目の前の見える聞こえることに関してです。
これを読んで、自分に対して、こういうようにしようともう一人の自分が取り扱いをするのでないです。取り扱いをするもう一人が余計です。自己観察するからもう一人増える。
それでも、観察してしまう。その時もそのまま、そのままに自分の心を、自分がコントロールしようとしない、ほったらかし。
つまり、「前進」=そのまま=おのずとほったらかし
管理者さんの神経症発症(トップページ)について
>神経症が発症したのは13歳の時です。「精神的に強くなりたい」「頭を良くしたい」という思いから、 潜在能力開発に興味を持ち努力し、それがきっかけで神経症になり(潜在能力開発を否定しているわけ ではありません)
心の歴史はすべて虚構です。
持っている必要はなしです。
こういう機会以外は言葉で自分を決めること(神経症のもと)しないことです。
>今度は神経症を治そうという努力が始まりました。毎日あらゆる努力しましたが、全てが 失敗に終わりました。
神経症が先にあって、それを消さなくてはいけないと思うかもしれません。
実は、治そうという努力が始まることが神経症の始まりです。
釈迦と同じです。
釈迦は6年間、毎日あらゆる努力しましたが、全てが 失敗に終わりました。
それで、ただ、やっとかろうじて、身を菩提樹に預けるしかなくなった。
結果的に、「自分」に向けた努力が止んだわけです。
>神経症を治すホームページは、神経症関連のサイトではお勧めのサイトですが、神経症は大変難しい病気で、 何年経っても治らないという人がほとんどだそうです。
神経症関連のサイトではお勧めのサイトありません。(12年9月現在)
>この神経症サイトは、神経症を治すホームページを読んでもダメだった私が、なぜだめだったのか? 私の神経症発症から、現在に至るまでの経緯を紹介したものです。
神経症の種類にも様々なものがあるようですので、参考になるかどうか分かりませんが、同じ様な方のお役 に立てればと思い、この神経症サイトを開設しました。
「同じ様な方のお役 に立てればと思い、この神経症サイトを開設しました。」この作業の時は毎回、全治している(もとのままにある)のです。
次の瞬間、自分の概念化して、情報化された自分、自分という情報について、観念・虚構の世界上で、
自分を目的に、自分に向かって、自分対自分の努力が始まれば、神経症再起動です。
さて、再起動したとしても、お湯が沸いたから、デスクトップ離れた、お湯がこぼれて拭いていたら、結果的に、神経症という名のデスクトップはセーブモードでアウトになります。
そのぐらい簡単に入れ替わっているんです。が、自分の中では、(向上心が強い完全を強く求める熱心さから)神経症の自分がずーと続いているように心の歴史を編集していまって、自分は神経症だということで固定化してしまってるわけです。
トップページの管理者さんの症状について
>ささいな事でも強い不安感を感じる。
>強い不安感を感じる事は、何度やってもなかなか慣れない。
>憂鬱になる事が多い。
不安・憂鬱・苦しい=☓、楽しい・癒される・安心=○という良し悪しをつけない。
良し悪しをつけると自分が自分を評価し責めるようになる。
心に良し悪しはもとないから、どんな状態になっても、満点。
>物事を忘れるのが怖く、忘れないように頭の中で一定時間ごとに確認する。
「一定時間ごとに確認」を忘れないことはなかなか難しいことです。
>頭の中で疑問が生じた際に、苦しくなるほど深く長い時間考える。
深く長い時間できることは、すばらしいです。
自分以外に使うと有効。
>言葉では説明しづらい、苦しくて効率の悪い独特な思考をする。
>神経症を治す事ばかり考えている。神経症を治す事ばかりに時間をとられ、他の事はどうでもよくなってしまう。(瞑想・自律訓練法・呼吸法が神経症に効果があると思い実行するが、そればかりやって、他の事はどうでもよくなってしまう)
「そればかり」という集中を自分以外に使うと有効。
神経症回復した人がどえらい仕事をなす話をよく聞きますがそういう熱心さの由縁です。
>「考えない」を意識するが、それにとらわれ、疲れてしまう。
>「無」を意識するが、それにとらわれ、疲れてしまう。
>「言葉をなくす」を意識するが、それにとらわれ、疲れてしまう。
(宇佐先生の言葉で)心の用事なし。
心は無責任で良い。
食べたら、消化おまかせと同じ、血行良くしようなどと心臓に力入れようがないと同じ。
>神経症を治す方法を思いついて、実行すると気分が高揚するが、何日かすると鬱状態になる。
このように自分を言葉で置き換えて決め込むと「自分イメージ」ができる。
その自分に向かって自分が対立して努力することが神経症です。
ですから、自分を言葉で決めない。
>稀に神経症から抜け出せそうと思える時があるが、せっかく調子がいいのにそのままにする事が出来ず、・・・
「調子がいいのにそのままにする事が出来ず」も「出来た」も「そのまま」なんです。
「そのままにする事」という心の用事しないでも、実は「そのまま」です。
>「なぜ調子がいいのか?」を分析せずにはいられない。その分析結果で得た答えを、常に意識してしまう事で、また以前と同じ神経症の状態に戻る。
分析結果で得た答えはどんな答えも、実物ではない考えであるから、虚構。
>雑用をやれば神経症が治ると思い、とりあえずやってみるが、少しするとまた考え込んでしまい、結果として継続する事ができなかった。
用は、必要を満たす目的でやるわけです。自分どうこうしよう目的でやるから行き詰る。
例えば、小用、おしっこという用がある時、不安憂鬱気分でおしっこした、満点。安心気分でおしっこした、満点。
おしっこできたから満点。それだけといえばそれだけ。
>自分のやり方が絶対に正しいと思い、十何年も失敗と挑戦を繰り返す。
>神経症を治そうと何をやっても効果がない。
>神経症を治す方法を思いついた後、その方法を忘れないように常に意識上に置こうとする。
手段、方法を探し自分が自分を改造している
(例;神経症を治す為に、「神経症を治さない」をやってみる)
手段、方法がつきて、自分に自分が努力しなくなって
結果的に、その熱心さが外に向かえばよい。
それが、本人がそのつもりはないが、「治り」とカルテ上呼ばれる状態。
つまり、結果的に、治そうとすることが中断している状態。
見る方向は、外と自分いっぺんに見ることができないから、外見たら、自分は、自動的に、ほたらかし。自動的です。ほたらかしにしようとしないでいいんです。
何のことはない、もともとの状態。
つまり事実通り、苦しい時は苦しい、楽しい時は楽しい。
それだけといえばそれだけ。それを全治とカルテ上呼びます。
三聖さん、トップページまでコメント頂きありがとうございます。
神経症に人にとってベストなサイトを目指していきたいと思います。
管理人さんへ
ご挨拶が遅れ失礼いたしました。
私事のために勝手にこの場をお借りした事、何卒ご容赦下さいませ。