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  • #1117 返信
    アトランティックサーモン
    ゲスト

    なまずさん明解な掲示板読ませて貰いました。有難うございます。
    人生問題解決というHPに下の投稿がありました。なまずさんの感想あるなら教わりたいのですが何卒どうか御願いします。

    >>>
    神経症の治りに「内面の充足」は必要か?
    投稿者:わんわん 投稿日:2021年12月 4日(土)23時47分47秒

     加藤諦三の本が、ただ売れるだけの、無意味な内容か、
    考えるに当たって、手始めに、
    「神経症の治り」とは何か、考えてみたいと思うんだ。
    HNさんは、神経症の治りとは
    「もう1人の自分の存在=無意識に気づくこと」だと書いていて、
    それが「見性」、いわゆる「神との和解」だと、
    繰り返し、主張しているよね。
    言葉を変えると「本当の自分を知ること」、
    これなしに、神経症の治りはありえない、そうとも言えるね。

    じゃあ、神経症になる人は、どうして、それまで
    「2つの自分」の「乖離」に苦しんできたのだろう?
    そこには、生来の敏感な性格だけでなく、環境的要因もあるんだね。
    このことは、また今度、詳しく触れるけど、
    例えば親や周囲と、本音をぶつけて話す空気がなかったり、
    そのような内面の自由のない環境では、子どもは
    自分本来の、気持ちや意思、感受性に、気づくことなく成長してしまう。
    自分の本当の、心の動きや、願望に、蓋をしたまま、
    親や周囲の気に入る反応や、行動ばかり、することになる。

    本当の自分に気づけないと、そのうちやがて、
    努力すればするほど、苦しくなる。
    服を「後ろ前」に着て、外身の、服の向きを前進だと思いこんで、
    懸命に走っているようなものだ。
    必死になればなるほど、実際には後ろに進むことになる。

    神経症のからくりの難しさが、ここにある。
    ただ作業したり、行動できても、
    内面と外面が調和して、楽になれないと、治りではないんだね。

    ところで以前、鈴木先生と、宇佐先生の、
    それぞれの療法について、対決がしたい(笑)、
    討論したい、という、酔狂な書込があったね。
    https://9019.teacup.com/jinseimondainokaiketsu/bbs/18616

    最大の違いが、実は、ここにあるんだ。
    宇佐療法の、他の森田療法と違う、最大の特徴は
    「心を(完全に)ブラックボックスとして扱う」ことだ。
    宇佐先生によると「周囲の人達と共に、ただ作業に没入する。
    その一瞬一瞬が、もう全治の姿だ」という。
    「心を言葉で形容しただけで失格」らしいし、
    さらには「自分を客観視してはいけない」とまで言っている。

    実は、宇佐先生の本で治ったとする、斎藤さんにも、
    その根本思想は、ソックリ踏襲されているんだ。
    神経症の思考は、全て「狂い」「精神病的なもの」と排除し、
    「とにかく考えない」ことをモットーとする。
    神経症の人の心の中や、悩んだ年月も、
    みんな「ガラクタで無駄、無意味だった」と結論付ける。
    そのあたり共通性があるよね。

    しかし、心の状態を無視するが故に、
    宇佐療法では「全治は一瞬、再発も一瞬」という、
    何とも珍妙な標語が生まれてしまう。
    これに呼応するように、斎藤さんにも「フラッシュバック」という
    概念があるのは面白いね。これは、決して、偶然じゃない。
    宇佐先生の講話を、何と200回以上(!、ぼくには無理だ、笑)
    にもわたって、熱心に聴講したけれど、
    それでも、鬱が再発して、悩みだ、という人がいたけど、
    それは、宇佐療法が、内面の充足を一切無視した、
    「外面だけの指導」をしていることが、原因だと、ぼくは思う。

    鈴木先生も、神経症の悩みは、その人には深刻でも、
    端からみれば、ただの「道楽」と表現するけど、一方では
    「その人が解かねばならない、人生の公案だ」と、位置づけている。
    神経症の悩み自体、決して「狂い」や「ゴミ」ではないんだ。
    通過すれば、安心と充足が、心に宿り、
    二度と再発のないものでなくてはいけない、と思うよ。

    「外面を正して、行動すれば、それだけで治り」とする、
    宇佐先生の指導は、全治根治がないとして、
    一生フラッシュバックの心配が必要な、無為療法と、
    共通する弱点が、あるように思うよ。

    ちょっと話が途中からそれて、上手く書けたかどうか、わからないけど、
    森田療法自体は、本来、内面の充足を、決して無視した内容じゃない。
    それに関連して、加藤諦三の主張も、有意義な要素があるはずだ。

    いや、宇佐先生支持の人達や、加藤諦三の読者の人達からも、
    反論、コメントなど、あったら嬉しいな。
    <<<

    #1119 返信
    なまず
    ゲスト

    アトランティックサーモンさん
     先ずサイトチェックが疎かになりお返事が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
    さてご投稿についてですが他のサイトでの第三者の投稿に対する私の意見、感想とという事で
    しょうか。

    投稿された内容は、HN:わんわんさんの神経症の「治り方」はこうでなければならない、こうあるべきだというように自身の願望を記しておられ、神経症の療法はもっと心の充足感が得れれるものでないといけないという主張です。
    しかしそのように神経症を考えにより観念的にとらえること自体が間違いで、宇佐先生の表現である
    「脱線」というものです。
    神経症はもとより病気ではなく治すべき対象ではないのです。
    神経症は「治そうとする病気」といわれるように自己のこころの不全感を自身の意思、努力や工夫で何とか元に戻そうとするがしかしその行動が益々不全感を増長させにっちもさっちもいかない状態に自らを追いやりこころを観念による縄で縛ってしまうものです。

    心は私たちそれぞれに属しますが私たちそれぞれの支配下にないものでありいわば私たちの内なる自然というべきものです。
    そして森田療法は(宇佐療法という言葉は世間がそのように呼ぶだけで宇佐先生がそれを標榜されているわけではなくあくまでも森田療法です。)心を何とか変えたり別の考えで置き換えたりしようとする療法ではありません。
    森田療法は云わば正しい行動を日々の生活で実践することで自ずと心が自然の法則に則って勝手に整えられるという療法です。
     従ってそれは療法とは言いますが方法ではなく法則であると言えます。
    つまり人によって向き不向き、合う合わないが無く万人に共通の法なのです。
    森田療法の「全治」は仏教の心髄、エッセンス、つまり「悟り」と全く同じものです。
    そしてそれは言葉、論理、考え、知性では絶対に捉えられない、観念的に伝えたり
    理解する事が出来ないものです。
    従っていくらどのように説明しても伝わる事がありません。
    それは「神経症を治そうとする私」を離れた行動によってのみ、自ずと明らかになるものです。

    >「外面を正して、行動すれば、それだけで治り」とする、
    >宇佐先生の指導は、全治根治がないとして、
    >一生フラッシュバックの心配が必要な、無為療法と、
    >共通する弱点が、あるように思うよ。
     
     無為療法はさておき前文の宇佐先生の指導をそのように浅薄な捉え方しか
    できないのは残念ながら何も分かっていないという事になります。

    私たちは毎日の生活において言葉や観念のフィルターを通してしか眼の前の
    世界を見ることが出来ないような、人間として生まれたがための宿命的な
    性質を持っています。
    言葉を持ち知性により物事を論理的に扱い理解する能力です。
    神経症の起こる根本原因はそこにあるのですが、しかしそれはその性質のために
    その能力がその根源に気づく事が出来ない要因でもあるのです。

    神経症は心の捕らわれです。
    その捕らわれが自然と起こったように解決も自然と勝手に解決されることしかありません。

    毎日の私たちそれぞれの役割に従って日々の生活を送り、日々のどのような些細な事でも
    創意工夫をし知性を私の心には用いず外の世界、眼の前の現実の世界に用いることが
    大切な事です。
    行動は心から始まって行動すると思いがちですが、真実は行動によって心が変わるのです。
    心と行動を別にするというのは心の状態に従って行動するのではなく眼の前の日々の生活の
    その時その時のシーンで必要な行動をする、眼前の世界の必要に即応じることが大事な事です。
    これはそのようにすれば神経症が治るという目的があってそうするのではなく只々眼前の世界が
    必要であるから行動するという事だけの毎日の生活そのものです。
    そしてその時に付随する心、それは心地よい事もあり、不快な事もありますがそれらは十分に
    受け取り味うことで良いのです。それに言葉で尾ひれをつける必要はありません。
    どんなに苦しい事辛い事でも只々味わう、楽しい事もうれしい事も同様に十分に味わう事
    です。
    それが正しい行動です。
    そしてそれで十分であり、OKなのです。

    自身の問題として神経症を論じることは観念に捕らわれる原因になり真の治りを遅らせることに
    なります。
    学問や外の客観的な世界の知識、経験、知見などと異なりこころはそれだけで完全なものであり
    そこに付け足すことも減ずることも不要なのですが、同じように扱うとそれらに縛られて自由な行動が
    出来なくなってしまいます。

    神経症の「治り」というのは普通の治る、治らないを超えたところにあります。
    自らが標榜する「療法」以外で神経症が治ったという人がいないと主張する方がいますが
    治る治らないを問題にしているようでは何も分かっていないという事を言っているに過ぎません。

    以上、全て断定的な言葉で記していますが通常の客観的知識の理解と異なり
    自らの行動で自ずと与えられる経験による体得でしか真実を得られない事なので
    そのようにしか表現出来ないのです。
    しかし間違いのない事であります。

    #1120 返信
    なまず
    ゲスト

     神経症を論じず、愚痴をこぼさず、行動をする中で療法の正しさを実感する事を保証致します。
    元より教えられずとも皆その素質、仏教でいうところの仏性をもって生まれています。
    だれも皆、その行動の中でよく分かって行きます。
    それを保証致します。

    #1121 返信
    なまず
    ゲスト

    なお先に記しましたが神経症について論争をする事は全く意味が無く害をもたらすものでしかありません。
    心は論理が通用しない世界であり論理を用いて客観的に検証不可能であるからです。
    どのような理由であってもされませんように

    #1122 返信
    アトランティックサーモン
    ゲスト

    なまずさん、ご感想読ませて貰いました。有難うございます。取り急ぎご連絡まで。また後でお願いします。

    #1154 返信
    なまず
    ゲスト

    アトランティックサーモンさん、おはようございます。
    ご質問ですが、「仏性」はその字の如く仏としての性質という意味ですが
    私たちには仏性があるというのは悟りの能力が生まれながらにして備わっているという意味です。
    生まれながらに悟っているのですが人が言葉を覚え使えるようになり物事を知性で論理的に考える事ができるようになることによって悟りを失ってしまいます。
    人が言葉、知性、論理、観念の能力を持つようになりなんでも考えによって理解してしまうことで物事を全て把握していると錯覚してしまいます。そしてそのことは意識もしない
    のです。
    考えに依らないことにより再び悟りを得ることができるのですがそれが難しいと思われるのは考え、知性、観念、論理によって私たちが日々生きていると錯覚することが身に染みているからです。
    そこから離れる事ができるのが、想い、考えと行動は別にするという教えです。
    自分の心ではなく現前の世界の必要性によって行動することにより真実が見えるようになります。
    悟りは行動の中で誰にもいつでも現れています。
    しかし考えで論理的に真に理解できることではありません。
    それは自身が行動しなければ絶対にわからないことです。

    #1162 返信
    アトランティックサーモン
    ゲスト

    なまずさん、お時間作ってもらって有難うございました。
    「仏性はその字の如く仏としての性質」とは、わかるんですが、その仏の性質って何なんでしょうか?躯体的な例をあげて教えてもらえないでしょうか。

    #1164 返信
    なまず
    ゲスト

    その意味はその続きでそれは悟りの存在であるという説明をしていますが、それはいつも記しているように
    論理的には説明できない超論理のものです。
    しいて記せば「この一瞬一瞬、どんどん変化し前に進んでいる」とでもいうようなことなのですが
    それは普通の知識や学問のように論理やイメージで理解できないものです。
    泳げない人に泳ぐことをいくら詳細に説明しても実際に泳げるようにならないと泳ぎの実態が
    分からないのと同じです。
    それは考えを離れた日々の生活の中で誰にも与えられ、わかるもので
    いまこの瞬間にだれにでも現れているのですが知性や論理的に考える能力によって
    強力なフィルターがかかっていてわからなくなっているものと言えます。
    ですので考えで得られないものですから考える必要はありません。
    考え、論理的思考は実生活でのみどんどん使うだけでよく自分の心の探求には
    無用のものです。
    ただ日々実生活を実生活自身を目的として過ごしていることでよいのです。
    かつて「悟るぞー、悟るぞー」という人をテレビで見ましたが自身の意思で悟りを
    得ようとそれを目的に努力しても無駄に終わります。

    このように説明するとまたそれを考えてしまうので説明は逆効果です。
    それは人から教わらないでわかるものなのです。

    #1165 返信
    なまず
    ゲスト

    >自身の心の探求には無用です。
    → 自身の心の探求自身が無用のものです。

    #1166 返信
    アトランティックサーモン
    ゲスト

    なまずさん、超論理という事ですね。有難うございました。「考え、論理的思考は実生活でのみどんどん使うだけでよく自分の心の探求には無用のものです。」→これはよく聞いてます。自分の心の探究でなく仏性悟りについて勉強で御聞きしてます。
    悟りの説明は悟りという事とは違う事はわかります、泳ぐ説明をしても泳ぐ事は出来ない事と同じですね。説明しても追いつかない事をふまえて悟りを説明して頂ければ嬉しいです。

    #1167 返信
    なまず
    ゲスト

    超論理という事は論理的に説明できないものであるという事ですので説明しても正しく伝えることが出来ない代物です。
    上記あえて記せばとしたことですが、前に進むという事以上に説明できないものです。
    脳科学でクオリア:Qualia というもので感覚質という言葉がありますが、
    信号の赤色のあの感覚を論理的に説明出来ないのと同様で悟りもQualiaです。

    禅の話で趙州無字の公安をごぞんじでしょうか。
    弟子が趙州和尚に「犬にも仏性があるか」と聞いたところ
    「む~っ」 と答えたという話です。
    この場合の「む~っ」は 「無~っ」ではなく ただ「む~っ」なのです。
    単に有無を言っているのではありません。
    「う(有)~っ」と答えたかもしれません。
    その時、心が前に進んだのです。

    #1168 返信
    アトランティックサーモン
    ゲスト

    なまずさん、詳しく御答え有難うございます。

    「その時、心が前に進んだのです。」

    むーといっても有ぅーといっても関係なくすすんでいるんじゃないでしょうか?

    「信号の赤色のあの感覚を論理的に説明出来ないのと同様で悟りもQualiaです。」

    悟りは感覚だけの事をいってるんですか?
    論理を組み立てる作業は悟りといえないんでしょうか?

    なまずさんの悟りを自覚した体験はあったはずですが、どういう体験でしたか?

    #1169 返信
    なまず
    ゲスト

    言葉で表せない超論理を言葉、観念化するといくらでも突っ込みどころがあるものです。
    因果に落ちることはやめます。
    ・ー・ー・

    #1193 返信
    アトランティックサーモン
    ゲスト

    なまずさん、すいませんです、なんども何度もやっても【言葉で表せない超論理を言葉、観念化するといくらでも突っ込みどころがあるものです。因果に落ちることはやめます。】のあとがどうもでてこないというんか、字が上だけ出てて下が隠れていて読めないんです。すいませんが御答えをもう一回書いてくれませんでしょうか。

    #1194 返信
    なまず
    ゲスト

    アトランティックサーモンさん、答えはそれで全部です。
    学校の勉強のようには学習出来ません。
    質問の答えを求めるところで止めている、知ろうとする行動をやめておくことが大事です。
    普通の事と違って人から教えられないことで成り立つ教育です。
    答えは与えられます。

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