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馬太郎
ゲスト神経症と体の健康は関係があるのでしょうか。
当方10代前半から現在に至る十数年、激しい自己嫌悪とそれに伴う自己改善欲求にとりつかれ孤独な人生を歩んできました。
最近はなまずさんや宇佐先生の言葉のおかげもありその傾向も弱まってきましたが、
10代中盤から自律神経失調症に苦しんでいます。
症状を挙げればキリがないのですが、例えば最近はドライマウス(唾液乾燥)の進行が酷く、
緊張していない場面でも口が乾燥し、話す際にペチャペチャと音が出ることが多く、
それが気になってしまい、話すことも億劫になってしまっています。
他にも検査では異常のない体の不調がいくつかあり、自律神経失調症あるいは
他の人よりも著しい老化に悩んでいます。神経症を完全に克服すれば、体の健康につながるのでしょうか。
あるいは、それほど関係ないのでしょうか。何かご助言などあれば、いただければ幸いです。
なまず
ゲスト馬太郎さん、今晩は
投稿ありがとうございます。
神経症と身体は関係あるかどうかですが、私は専門家ではないので医学的に正確に記すことは出来ませんが経験したものとしてお答えするとそれは明らかに関係があります。
私も若い時には急に心臓の鼓動が乱れて死ぬのではないかと恐怖に囚われたり、内臓の不具合を常に感じていて何か異常があるのではないかいう不安に囚われあちこちの病院に通ったりしたこともありました。しかしいくら調べても器質的な異常は無いのです。
そしてそのようなときに一般的には神経科とか心療内科で診断されるのが不安神経症、私のような場合は心臓神経症とか心気症とかいう診断になりそして身体的には自律神経失調症という診断になると思います。また症状によっては最近その用語がよく知られるようになったパニック症候群などという診断になるのだとおもいます。
あなたも症状的にはキリがないと記されているように、人により症状は様々でまたその症状も継続的に続くものや、いろいろと変化していくものがあったりすると思います。
(続く)なまず
ゲストそれらは世間の普通の考えではそれは大変ですね、お大事にという事になり私たちはそのような事が起こらないように心を配ったり用心したりするということになりますが、真実はこと神経症においてそのようにすること自体が本当に治る事を遅らせる、妨げるということになります。
たいていの神経科や心療内科などで治療としてすることは主に精神安定剤や抗うつ剤、睡眠薬、睡眠導入剤などの向精神薬と呼ばれる薬の処方です。 今は行動療法とか薬物以外のものもあるようですが。
私も当時はいろいろと薬を貰いましたが基本的に薬は神経症やその類の不具合(あえて病気とは呼びません)を根本的に治すものではないのです。そのような薬は本来の状態に戻ろうとする身体や心の自動的、自律的な力、働きに対してそれがちゃんと機能するように私たちがあるべき状態に居させやすくするという類のものです。
ただ薬には習慣性や依存性があり、また長期間服用するとその副作用が強くなって眠気や意欲、気力の低下、その他いろいろと逆効果になる事が多いですね。
(続く)アトランティックサーモン
ゲストtest
アトランティックサーモン
ゲスト何度もなまずさんにお礼の送信をしたんですが、なぜかできなかったのでした。
あらためましてなまずさん有難うございました。
それから、なまずさん、仏性の事言ってましたが、仏性って何ですか、詳しく例を上げて教えてください。アトランティックサーモン
ゲスト何度もなまずさんにお礼の送信をしたんですが、なぜかできなかったのでした。
あらためましてなまずさん有難うございました。
それから、なまずさん、仏性の事言ってましたが、仏性って何ですか、詳しく例を上げて教えてください。なまず
ゲストアトランティックサーモン さん
問い合わせいただきましたがここは馬太郎さんのスレッドなので
先にいただいた質問のスレッドに移ります。なまず
ゲストすみません、続きが遅くなり年が明けてしまいました。
さて先に記したことは決して薬を飲むことが良くないと言っているのではありません。
病院で診察を受けておられると思いますがそれはそれで先生と相談されたら良いと思います。ここではそれとは別に私たちに共通する生活への取り組みを記します。
心の問題の本当の解決は誰かが考案した特別な考え方や思想、方法の中にあるのではなく私たちが生来持っている自然な力、能力に依拠することで実現されます。
それは結局のところ仏教の教えの核心と同じものです。仏教と聞くと寺院や線香臭い儀式などをイメージされるかもしれませんがそれらは日本の仏教の歴史の中でできた文化の一つであり仏教の教えの核心とは直接関係はありません。
仏教の教えの核心はいわゆる”悟り”と呼ばれるものですがそれがどのようなものかを真に言葉で表すことができないものであれとかそれとしか呼べないものです。それは誰にも生来あるものですが育ちの中で言葉を覚え知性が発達し物事を論理的、観念的に把握することができるようになるにつれ自覚しないものになってしまいます。
そして物事を論理的に観念的に把握する能力は人類の文化を発達させ現代のような高度に発達した文明を築くまでになりましたが人の心については残念ながら仏陀の生きていた時代と変わらず不幸や苦悩から解放されないままです。悟りは人が考えによらない行動をする姿そのものです。
考えに依らない行動とは日々の生活そのものをただただ行動することです。
その行動のなかで知性、考えをふんだんに使うことです。
そしてそれに付随する様々な思いや、不快感、不全感は今までは除外すべきものとしてきたと
思いますがそのまま十分に感じ味わうことでよいのです。
もちろん良いと感じこと、幸せに感じることも同様に十分に感じ味わうことです。
良いことも悪いことも同じように等しく扱うことが大事です。
そして辛い苦しい悩ましいを表現せずに眼の前の必要な生活に即応じているだけでよいのです。行動するなかでそのことの真実が実感できるようになっています。
馬太郎
ゲストなまずさん、年末年始の貴重な時間を割いてご回答いただきありがとうございました。
自分は常に理想の自分像を抱えてしまうクセがあるので、それは誤りだと認識し、自分に良い悪い言わずに行動していきたいと思います。
今の自分にはまだまだですが、日々の生活を通して人生に対する態度を改め、悟りといいますか、苦しい人生を生きてきて良かったなと心から思える瞬間に出会えたら良いなと思います。
アトランティックサーモン
ゲスト馬太郎さんのスレッドにお邪魔してすいませんでした。アトランティックサーモン
なまず
ゲストはい、理想の自分を求めるのは自然な事です。
わたしも同様でした。
しかし今のありように満足出来なくとも自分については
良いことも悪いことも追求せずそのままにしておいて
それとは別に行動は眼の前の、日々の生活の必要な事に
即応じている。生活に必要なことはあれもこれもどんどん今まで気づかなかった、考えもしなかった事が出てくるでしょう。それらを色々と知恵を絞って工夫しながら
やって行くようにしましょう。
それは今の自分の問題を解決するということを超えた
、人に共通の真実に生きる姿です。
どんどん悪くなってもそのまま、どんどん良くなってもそのまま、そして必要な事をして行く、日々実行馬太郎
ゲストなまずさん、もう一つ教えてください。
主体性を持つことは大事でしょうか。
私は昔から人間関係が苦手です。仕事については人並み以上にでき仕事に関する会話などはある程度できるのですが、雑談など自分が会話に入らなくても成立する話にはなぜか全く入れません。だから、一対一なら誰とでも話せますが、4人以上とかになると話せなくなることがほとんどです。頑張って勇気を出せば話に入っていくこともできなくはないのですが、そんな勇気は長続きせず、元の木阿弥に戻ります。ただ、黙っているので周りの人に気を遣わせてしまっていると思いますし、そんな自分に罪悪感を覚えるので苦しいです。森田療法など仏教的な考え方に出会い、自分にあまり指図しないようにすると、特に黙っている場面が増えたように感じます。
なんでこんなに自分の話をするかと言うと、なまずさんの話を聞いて納得しても、自分の事になると何か別の解決策があるのではないか、悟りとは別の次元の心理学的な問題(アダルトチルドレンとか)が自分にはあるのではないかと思ってしまうのです。心理学や所謂自己啓発(嫌われる勇気とか)の考え方はとても合理的で納得しやすく、私のように悩んでしまう人には正解に見えます。
自分なりにまとめると、森田療法的な視点で日常生活に取り組むと、仕事などで黙ったままの自分、ただ気持ち的にはとても苦しい自分でいてしまうことが多いのですが、この時の苦しさを耐えれば良いのでしょうか。そしたら、そのうち行動を自由に選択できるような状態が訪れるなど心境が変化するのでしょうか。それとも、苦しくても他人に気を遣わせないように頑張って他人の会話に入っていたり、自分から行動を起こしたりすることが必要なのでしょうか。
まとまらない文章でとても恥ずかしいですが、自分の思ったこと、いつも悩んでしまうことをそのまま書きました。
何かアドバイスを頂ければとても幸いです。
よろしくお願いします。なまず
ゲストそのような事はあなただけではありません。
神経症の人は私も含め大体同様の事があるだろうと思います。
神経質な性格の人はそのような事がとても気になる性格なのです。しかし外の世界、実体のある眼前の世界の客観的に必要な事に対しては
今あなたが既にされているようにどんどん知性を働かせて創意工夫をもって行動していく、
しかしその時のこころはどのようであってもそのままでいて、知性の手出しをしないこと
それには例外はありません。こころは自律的、自発的に動いています。
自分でコントロールしそのような心を作っているのではなく内なる自然です。
それらは外の自然に対する態度と同様、そのまま受け味わう一方です。
良い事も悪い事も、たとえ非常識、非社会的なことを想ったとしてもそうです。
こころは分けられないもの無分別なものであり、善し悪しなど全ての対立概念がないのです。
そのような心に対立概念を持ち込むと心の法則に反しどうにもうまくいかなくなります。私のこころは私は知りませんとしていることです。
こころがどう感じようとあなたに責任はありません。
それに手出しをしない、それに従って行動しないことが必要な事です。
私のこころから発した(客観的実体が無い)ことに依って行動しない。
行動するとうまく行かずそのことが端緒となり深みにはまってしまいます。
自分の心を何とかしようという試みは全て失敗します。雑談をしない、出来ない事は社会的に悪い事ではありません。
しないあなたを他の人が悪く思う事もなくそのようなあなたを、
あなたが気にするほどほとんど気にしていないでしょう。
ただそのような事は苦手か、しない人だ位にしか思っていないでしょう。
しかし私はそうではなく周りの人たちを不愉快にさせ気を遣わせていると感じる。
、、、
神経症者はそのように自意識が強いのです。
問題は感じること、想う事に客観的実体があるかどうかです。
客観的実体が無い事を有るかのように感じ思い込んでしまうのが神経症者の悩みです。
ただ自分のこころはこのようにまざまざと感じる、これは間違いのない事だと
疑うことなく真実のように感じてしまうのです。
自分の心を疑う、信じないという事は今まではまずしなかったと思いますが
そのような事が悩みの実態なのです。そのまま前進 は真実に生きる姿、行動です。
間違いはありません。なまず
ゲストこころについての教えは予め論理的に検証、確認できない事です。
行動していく中でその教えを確認、検証できるものです。
実行する事でその正しさが確認できる森田療法は
その意味では宗教と同じと言えます。
信じて実行する中には心の対立概念である疑うという事も当然
起こりますが疑う心が生じてもそのまま行動していく事が大事です。いつかは分かりませんがいずれ向こうからやってきます。
馬太郎
ゲストなまずさん、ご返信ありがとうございます。
例外なく心に手出ししないということですね。
具体的なケースを挙げるのはあまり好ましくないのかもしれませんが、私の場合ですと、心に拠って行動しないとは、他人に気を遣わせることへの心苦しさを解消するために行動しないということでよろしいでしょうか?
今までは、他人の会話に入っていけた時や勇気を出して自分の話をできた時などにその結果心が楽になったりしていました。現代社会の風潮として、社交性やコミュニケーション能力はあった方が良いとされますし、寡黙であることは不利と感じる場面が多いです。
しかし、そういったことに惑わされず、話すべき場面と心が感じた時でも、話そうが話せまいが結果については放っておくということで良いのでしょうか。
真実に行動するとは、行動が自動発生的に起こるのを妨げない、或いは心が行動を起こしたいと感じた時でも行動が起こらないときはそれは仕方ないこととして諦める、そんな感じでしょうか。 -
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