クレームが入ったので、削除します。
前回の投稿内容と関連しますが、「生きがい」というものも同様に違うのではないかと感じました。
今、世間から叩かれている週刊文春の2017年11月2日秋の特大号で、島田紳助さんの現在についての記事がありまして、初めて週刊文春を買ったのですが、そこに「生きがいなんてなくても、毎日楽しければ良い」という紳助さんの話を思い出しまして、同じように生きがいや目標に頼らず、毎日楽しく生きたいものだと思いました。
人生に何か目的があって、それにひたすら向かって生きる事が、神経症から解放される為の助けになると思っていたのですが、生き甲斐だ、使命だ、好きだ嫌いだ、得意不得意、そんなことをいつも考えながら生きるのは、本当は何だか窮屈で楽しくないものなのかもしれません。
おい何をしてる
お前はそんなことを書いてる場合じゃないだろう
また「雑用」とか、「無」とかのお話ですか?
構えるな
雑用や無を受け入れた時始めてお前が求めたものを得る
そして構える
時は流れていく
お前に言っているのではない
お前だ
やっぱりまた雑用と無の話でしたね。こんなブログに書かないで、斎藤さんのところに行った方が喜ばれるんじゃないですか。あまりにご不快なようでしたら、今回の投稿は削除しますけど。
あなたが構えるな
無我さん
禅をかじっているのかなんだか知らないけど、そう言った難しい禅問答お仲間内でやって下さい。私らはあなたの様に悟ってないんでね
あなたこそそんなことを書いている場合じゃないだろう