以下なまずさんからたけさんへのメッセージです。
心の拠り所と言っていただくのはちょっと嬉しく思うところもありますが、真実は、心の拠り所を求める必要はなく自身の日々の生活に必要なことに創意工夫しながら取り組んでいる事で満点なのですが、私自身がかつてそうで有ったように解決を求めておられる方に私の経験による投稿がその近道への助けになるかも知れないと思うと投稿するのが良いのかと思います。
治りの真実は求める皆さんのもつイメージとは全く違うのですがそれを言葉でしか表現できない所に限界、というより不可能であると感じます。言葉は論理、知性の働きですが、治り、全治、悟りは論理を超えた世界、自身の心を相手にしない世界の事であるため、元々出来ないのです。
日々の生活をする事をいうのはそれが治す手段で言うのではなく真実にいきる事であるからです。
全ては与えられるものでその事は自身が体験しないと分かりません。
長年こちらのブログの読者ですが、なぜなまずさんの記事消されたんですか?
心の拠り所だったので残念でなりません。。。
すいません。
よろしければ、こちらをどうぞ。
三省会
なまずさんの師である宇佐先生の三省会のホームページです。
なまずさんからのご推薦です。
なまずさんからたけさんへのメッセージです。
心の拠り所と言っていただくのはちょっと嬉しく思うところもありますが、真実は、心の拠り所を求める必要はなく自身の日々の生活に必要なことに創意工夫しながら取り組んでいる事で満点なのですが、私自身がかつてそうで有ったように解決を求めておられる方に私の経験による投稿がその近道への助けになるかも知れないと思うと投稿するのが良いのかと思います。
治りの真実は求める皆さんのもつイメージとは全く違うのですがそれを言葉でしか表現できない所に限界、というより不可能であると感じます。言葉は論理、知性の働きですが、治り、全治、悟りは論理を超えた世界、自身の心を相手にしない世界の事であるため、元々出来ないのです。
日々の生活をする事をいうのはそれが治す手段で言うのではなく真実にいきる事であるからです。
全ては与えられるものでその事は自身が体験しないと分かりません。
こんばんは、
久しぶりの投稿です。
端的に記します。
神経症を治したい方は正しい行動をしなければなりません。
論理的に正しいように思えることでもそれが心に対する理屈や方法によって
成り立っているものは必ず失敗します。
心と行動は別にすること
1.すべて心に起こるものはあなたにとって良いものでも悪いものでも
心地よいものでも居心地が悪いものでも苦しいことでも今すぐ何とかしたいと感じるものでも
そのまま感じていること、そして今までのようにそれを何とかしようとしてしていることをやめておくことです。それらは言わば自然からあなたに与えられているものです。
心に想起する思い、感覚、感情、辛く苦しいことはそのまま味わいなにもしないでいる。
2.そしてその心とは別にあなたにとって、毎日のその時、その時の実生活に必要なことを
する気がなくても、いやいやでもとにかく行うこと、満足いかなくとも行動すること
1.心はそのままで 2.勉強、仕事、家庭のことなどあなたの実生活に必要な事をする。
それは方法ではなく真実に生きる行動です。
このように行動をすれば治るのではなく、真実は行動しているときすでに治っているのです。
心から始まる行動ではなく眼前の必要に沿って行動するときすでに真実の治りが脈々と
現れています。
そんなことは詭弁だと思われる方はその深い意味が未だ与えられていないという事に過ぎません。
辛く苦しい毎日を甘んじて受け取り淡々と必要なことをしている。
それでもう十分で他に何もする必要はありません。
心に働きかけてもあなたが思うように変わることはありません。
心は自分に属していますが自分がコントロールできないものです。
心に治すべきものはなにもなく心はそのままで完全です。
心には比較すべきものは何もなくすべてがそのままで等しく価値があり平等です。
つらい、苦しい、悩ましい、など今までしてきた言葉に表したり態度で示したり、、など
あらゆる表現をいまからはしないでおきましょう。
そして眼の前の実生活に勤しみましょう。
内(心)に対してはそのまま無表現でいながら、外(眼の前の客観的世界)に対してはいろいろと創意工夫しながら毎日を過ごす。
いずれ言葉や論理ではなくあなたの身体を通して与えられるでしょう。
読んでわかったつもりではなく行動することが大事です。
”心はいつも言葉になる前のところにいる” 心の真実のありようで大事なことですが、
そのことは理屈で真に分かることではなく、それも与えられることであり求めても得られません。行動を通して体験的にいずれわかる時が来るでしょう。
一所懸命に頑張る必要はありません、
ぼちぼちといきましょう。
管理人さんが掲示板を作ってくださいました。
ありがとうございます。
質問や意見などあればご利用ください。
”心はいつも言葉になる前のところにいる” 、前の投稿で記したことですが、わかるかたはそれをいつも続けてください。
しかし今までの心の習慣、癖とも言えるようなことで知らない間に心、想いに囚われてしまいますが、そう気づいたら戻ればよいだけです。
未だ分からない方は、只々、あなたの実生活に取り組んでいくだけでOKです。
外の客観的世界は調べたり考えたり努力すれば答えが出てきますが心の世界は考えてもこたえが出ません。
しかし元々だれにも平等に与えられている世界ですので教えられなくともいずれこたえが与えられます。
外の世界へでは必要な事を言葉、論理、知性を使って簡単な事でも複雑な事でもよく考えて行動し
日々の生活を進めていく、それは客観的世界での真実の行動です。
そして内なるこころの世界では、すーっと言葉になる前のところにいつづける。
こころの真実に沿った行動です。
いろいろと感情、身体の中からの刺激、想い、想いから発した想いなどが感じられて辛く苦しい
状態もありますがとにかく忍苦し十分にそれらを味わっていることです。
それが生きるという真実です。
・・・なんの事かさっぱりわからない、であっても大丈夫です。
真実に生きる。
あなたがする事は外に対しての行動で家、学校、地域、仕事、会社などなどにおいて必要な事をする。
毎日の生活そのものです。
その時もっとこうすれば効率が良くなるとか、より簡単に良いものができるとか考え工夫しながらするとなお良いです。それは本来の知性の正しい使い方です。
今あなたが何とかしたいと思うこころの問題についてはいつもそのままでいる。
その答えが知りたい、知りたい、何とかしたいと思うところ、つまり答えが出ないその不安定な居心地の悪いつらい苦しいところにそのままで い続けることで良いのです。
それについて考え、知性で工夫する事は問題をより厄介で複雑にすることでしかありません。
心の真実はいつも今そのままのこころです。
それに働きかけることは真実を曲げてしまう事に他なりません。
苦しさを表現しないという事は愚痴を言わないということです。
言葉、文字、態度に出さない。
失敗したらそこからまた始める。
座禅
座禅というと禅宗の行としての座禅を連想されるでしょう。
よく座禅はよく自己を見つめるとかいいますが、実際はシンプルにただ座る仕事というものです。
只々座っている、そして心に浮かぶ様々なことはそのままに感じているという行動の一つです。
だれでも仕事に取り組むとき、仕事とは無関係の事が思い浮かんでは消えるでしょうが
それに注意を向けて仕事の手は止まってしまうという事は無いでしょう。
座る事はそれと同じで、一つの座る仕事です。
ネットで調べてみると、調身、調息、調心とかあると思いますが余りそれにこだわらないでもよいです。
坐禅用の丸い座布団も売られていますがそれを買わなくとも座布団を二つ折りにして座り
足の組み方は半跏趺坐、結跏趺坐どちらでもよく、半跏府座もできない場合は胡坐をかいても良いでしょう。
また脚に問題があって座れない場合は椅子に背当てにもたれず座る事でもいいです。
ただ姿勢は大事なので頭のてっぺんから尻の穴に一本の竹が通っているイメージで
姿勢良く座りましょう。
そしてタイマーなどで決まった時間、最初は10分位から始めればよいです。
慣れてくれば21分間(半柱:線香一本焚ける時間の約半分)、41分間(一柱:線香一本焚ける時間)にすると
良いです。追加の1分は準備の時間くらいの意味です。
時間は毎日決まった時に行うようにして、例えば起床時や就寝前、或いは両方、あなたの都合に合わせて
決めればよいです。
座る事はこころはそのままにして前に進むという事が端的に表れる行動です。
この場合の行動は時間の中をただ座っていることです。
心には想いや過去の記憶、身体の感覚、心地よい事、不快な事様々現れるでしょうけれど、
現れるものをそのまま感じている事が大事です。
ふと気が付くとそれらにとらわれていることが有るかもしれませんが
その時はまた戻ればよいです。
時間がくれば静かに座を解きます。
脚が痛くなったら暫く休んでください。
何回かすれば慣れてきます。
是非あなたの生活に座る仕事を追加してみてください。
それをすれば何かが治るとかという事ではありませんが
その意味はいずれあなたの身体を通して分かるでしょう。
辛さ苦しさを分かって欲しいと愚痴をこぼしたり何かに書いても
一時的な気の紛らわせにすぎません
心の辛さ苦しさはあなた専用の薬と了解して、その苦しみを味わい、耐え忍び
そしてその心のありようとは別に目の前のあなたの生活に取り組んでください。
それは真実に生きる姿、行動です
他に道はありません
こころは自然
先にも記したようにこころは私達に属していますが私達の意のままにコントロールできるものではありません。
意のままにできるのなら私たちの悩みだけでなく世の中の悩み苦しみは存在しないですね。
こころはそれ自身のルール、論理、法則により自律的、自発的に動いているものでそれは私たちにとって
いわば外の世界の自然と同じといってよいものです。
つまり自然に対して眺め味わい鑑賞するようにこころに対しても同様に接することが自然の法則に
沿っているのです。
こころは心自身の働きによりそうなっているのでそのまま受け取る事が大事です。
こころに起こる事はすべて与えられているのです。
ただそのようにある、
こころは良くなったら良くなりっぱなし、悪くなったら悪くなりっぱなし
十分にその感じることを感じ、そのまま受け取る事が肝要です。
心の調子は治りとは全く無関係です。
そして行動は眼の前の毎日の生活の今必要な事をする。
私はかつて感謝することが大事といわれるが感謝の気持ちがないのに
感謝できるのかと訊いたことがありますが
心はどうあれ感謝することが大事で、有がた迷惑だなと思いながら
感謝する必要がある時は感謝する事が大事だといわれました。
心がどうあれ社会的な行動をすることが肝要だと、
その時は納得いかなかったが、後に世間の道徳・常識というレベルではない
その深い意味が分かるようになりました。
今あなたが納得できない、違うと感じてもその気持ち、心はそのままにしてとにかく騙されたと思って
行動することです。
わたしの言っていることはなってわかる事ばかりです。
知性で論理的に理解してわかり納得できることではありません。
いずれその意味があなたの身体を通して分かるようになります。
その仕組みは生来誰にも備わっています。
不生禅
江戸時代に盤珪という臨済宗のお坊さんがいましたが
「不生禅」と呼ばれる独自の禅を説きました。
それは人は生まれながらにして不生不滅の仏心を持つというものです。
仏心とは仏性とも言われますが人は生まれながらにして仏としての性質が備わっている
という意味です。
”全ては不生で調いまする”と説いたといいます。
この不生とは、ご存じの方も多いと思いますが仏教の般若心経の一節に
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中、、、、とありますがその
不生不滅を不生という一語にしたものです。
生じることもなく滅することもない、汚れていることがなく清らかであることもない、
増えることもなく減ることもない、、、、
これはこころは無分別、分けられない区別できない、そのままがこころ真実である事を
教えています。
彼は形式的な禅の修行を否定し、日常生活そのものが禅そのものであることを説きました。
つまりこれはこころはそのままにして目の前の必要な実生活をするということと
まったく同じことです。
”全ては不生で調う” という事はこころはすべてそのままでいることで
こころの自動的作用で整う、解決するということを示しています。
これは体験してみないとわかりませんが、ああ、もうだめだと思うときに
救いがやってくる、与えられるという事を体験するとおもいます。
行動することによってその正しさが確認できます。
最初に記したように説けば説くほど
人は考えに陥ってしまうという
言葉の特性による限界があります。
充分記しました。
これで終了します。
今までいってきたように心と行動は別にする。
実体のない自分が見た自分に何一つ真実はなく
そしてそれを相手にせず
実体のあるあなたの眼の前の毎日の必要な生活を送る事が
真実に生きることであり解決の唯一の道です。
辛くとも苦しくとも忍苦する。
愚痴を言わない表現しない。
それを実行する人のみが深い東洋の智恵の真理によって
間違いなく救われることを保証します。
追記します。
大事な事です。
行動は外の世界の必要さに応じて行う働きで決して今のあなたの心の問題を解決するために行う
事ではありません。
かつて修養の時私は畑の草引きをしておりそのことを「私は自分の神経症を早く治すために他の人が休んでいる間も頑張って畑の草をひいています。」と記すと「そのような心から始まる行動は治るのを遅らせます。つねに眼の前の必要に応じて行動しなさい」と答えがありました。
解決、救いは与えられるもので決して得ようと努力しても得られないもので逆に邪魔、障害になります。
結局それは自分の考えから始まる苦行となり苦行では解決は出来ません。
今の心はそのままにしてあなた生活に必要な事に即応じている事で良いのです。
生活に必要な事は理屈ではなく考えが出る前のところから始まります。
これを読んでまたいろいろと考えないでください。
一度読めば意識せずともあなたの魂にかならず残ります。
では、