「がらんどう」というノンデュアリティのコミュニティを運営しているAKANEさんと、不安神経症についてのお話しをしていて「自我の解体」とか「深掘り」と呼んでる作業らしいが、これはノンデュアリティとは別の話になるのだが、以下の指摘を受ける。
・長年不安神経症で苦しんでいるというが、それは不安神経症によるメリットがあるから続いている
・自我の防衛が強くて深掘りができていない。浅い
・臭いものにふたをしている
・他のノンデュアリティに救いを求める人達とのの共通点として「被害者のままでいたい」と潜在的に志願している
・いつまで痛いところから逃げ続けるのか?(目を背けて誤魔化している)
・ちゃんと向き合ってない。だから現実が変わらない
・解決ができるかもしれない期待、希望(今ではないどこかへ向かおうとする自我性)
という事を指摘されまして、「努力が足りていない」というように聞こえ、神経症歴30年以上の身としては「とてつもなく腹立たしい」指摘だったわけですが(「向き合ってない」とか特に腹立たしい)いったんその事について考えることにしました。
まず、以前に家族関係についての話が何度か出ていたので、他の人の例も紹介され、あたかも家族との関係や、自分が傷つかないように守る防衛反応が原因にあるかのような言い方をされたので、考えていましたが、それはないという結論になりました。(この件に関しては「そんなんで神経症が治るかよ。この人分かってないなぁ」という感想)
その後も考えていましたが、ある苦しみのエネルギーにふと気付きました。
エネルギーなので言語化はできませんが、神経症を治そうと長年努力している皆さんならたぶんご存知のエネルギーだと思います。
今回は、それが苦しみだとはっきりと認識できました。
確かに上記の箇条書きの項目に当てはまってると思いました。
不思議なもので、それが苦しみだとはっきり分かってからは、苦しみのエネルギーが弱くなりました。
「長年不安神経症で苦しんでいるというが、それは不安神経症によるメリットがあるから続いている」
についてですが、AKANEさんから以前にアドラー心理学についての本を紹介してもらい、「不安神経症であることのメリット」についてしばらく考えていたんですが、私個人のメリットではなく(「不安神経症である事にメリットなんかあるわけないだろ」と最初から感じていた)「不安神経症にとってのメリット(不安神経症が今後も不安神経症として存続できる)として「何か治す方法をやらせ続ける為に苦しみを作って、そして不安神経症本体を気付かせないようしていた」というからくりなんだと解釈しています。(この構図自体にはもっと以前から何となく気付いていたのですが、本体を苦しみのエネルギーとしてはっきり認識ができていなかった)
何が苦しみなのかを生活の中で確認していくという事です。
生活の色々な場面で出てくる。
感覚で言うと、不安や緊張はもちろん起こるが、それが苦しみではなく、それとは別の苦しみのエネルギー。
どこかへ向かおうとするエネルギー。
不安に対しては「これは不快だから対応しなくてはいけない」と色々と対策をするけど、その裏で「これは苦しみではないんだ」としてしまってるエネルギー。